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第七十九回「お経のお勉強 覚え書き其の1~南無阿弥陀仏をとなえる理由」

1.観無量寿経の概要

 南無阿弥陀仏の功徳を述べた代表的なお経は3つある。無量寿経、観無量寿経、そして阿弥陀経であるが、今回はその中で観無量寿経を中心にして考えていきたい。

 観無量寿経は、王子である阿闍世が自分の両親である王と王妃を捕らえ、手にかけようとするという非常にドロドロとした物語を背景としている。その我欲の連鎖が起こした人間関係の悪循環―業縁―の中で打ちひしがれる阿闍世の母である王妃、韋提希(イダイケ)。

 息子に幽閉され、苦に悶える彼女がこらえきれず釈迦に、極楽浄土はどうすれば観られるのですか、と問うた。その問いに対し、釈迦は十六観を通じて、九品の往生のあり方を説く。十六観では浄土往生の観法が記されるのであるが、その中で釈迦はまず戒律や止観といった行によって、浄土を観る方法(定善、散善)を示した。これが上品や中品にあたるものたちの方法である。

 しかし釈迦は、下品下生、すなわち仏智をにわかに信じられず、菩薩行を修することのできない韋提希のような凡夫に対し、南無阿弥陀仏と称えなさいと教える。

 

「…『お前がもし仏を念ずることができないのなら、無量寿仏よ、と称えなさい』と。このようにしてこの者は心から声を絶やさないようにし、十念を具えて、南無アミタ仏と称える」(『浄土三部経下巻』、岩波文庫、39ページ)

 

「あなたはこれらの言葉をよく記憶しておきなさい。これらの言葉を記憶することは、そのまま無量寿仏の名を記憶することになるのだ」(同上、41ページ)

 

 観無量寿経ではこれにより、韋提希とその侍女500人が自我を脱し、浄土を観、菩提心を起こすに至るのであるが、要するに、釈迦は戒律や止観を修せずとも、南無阿弥陀仏の六字名号を称えれば、往生しうるという道を示したのであった。

 この称名念仏による浄土往生の道の根拠は無量寿経で明らかにされた四十八願にある。よって観無量寿経で釈迦が説いた救いの道は、阿弥陀仏の本願力に導かれる他力の道であるといえよう。

 

2.気づき

 この世は一切皆苦であるがゆえに、私たち衆生は苦に苛まれる。釈迦はその苦が生じる原因を我執に求めた。我執、すなわち自分自分の心のみに従って生きれば、すべてが当たり前となり、苦ばかりが目につき幸せは遠のく。

 この我執を脱する道として釈迦はまず、自分を律する道―聖道門-を示した。つまりは上記のような戒律と止観の行―心を定め、物事をあるがままに観る―により、人は自分自分の心をコントロールでき、それによって苦を超えることが可能となる。これは実際に、釈迦が自らの生き様で証してみせたものであったし、また観経において定善十三観として説かれたものでもあった。

 しかしながら、韋提希にはその道を行くのが難しかった。ここで重要なのは私自身はその道を行けるか、という問いである。

 自分自分の心の根は非常に深い。自らを振り返ってみると、基本的に自分が得をする選択をしてきたし、時には思い出すのもはばかれるような貪欲に満ちた行為をしてしまったこともあった。

 また赤ちゃんを育ててみると、この根深さがよくわかる。生まれながらにして「自分のまんまや」と主張し、兄弟や友達ができると遊ぶおもちゃや食べるお菓子をめぐってケンカするようになっている。こうして見ると、人間とはそもそも我執が強い生き物としてプログラミングされているのではないかとも思う。

 このような考えに至ると、自身が韋提希と同じく凡夫であることに気づかされる。

 とても常に戒律を守り、止観をなせるような輩ではないことを知るのだ。しかしながら、ここで問題となるのは、聖道門では私のような凡夫は救われないということだ。私のような凡夫が苦から脱しうる道はないのだろうか。 

 もしないとすれば、凡夫は我執に振り回され、苦しみに満ちた人生で絶望を感じながら、生きていくしか道が残されていないということになる。

 しかし、釈迦、そして釈迦の残した衆生救済の道で一心に精進した先の仏教者たち~元曉、景興、道綽、善導、法然、親鸞などは、非常に慈悲溢れる方々で、私のような凡夫をも救わんとその道を探し続けた。

 そうして示された道が上記の浄土三部経で説かれた道、浄土門であった。ただ南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀仏の本願力―他力―を信じれば浄土往生の道が開けることを理論的かつ実践的に証明したのである。

 また、観経で示された称名念仏による救いの道が示唆することは、我執から脱するにはまず他力を認識する必要があるという点である。

 そもそも私たちが自分一人の力のみで成せることは、この世にあるのだろうか、という点を考えてみよう。短期的に見ると、それはあるだろう。今私の前にあるペンを持とうとする自分の意思は、すぐに実現することができる。我執に囚われた凡夫は、この事実―自分がやったんだ、とのみ考え思考を止める。

 しかしながら、それは「手」があってはじめて可能となる行為ではないだろうか。手を自分自身でつくって生まれた人はいないであろう。

 さらに言えば、私がペンを持てるのは、死なずに今存在しているからだともいえる。昨今、無差別殺人がよくニュースで流れるが、そのような苦に私たちが遭わなかったのは私たちの努力と才能のおかげなのだろうか。

 また自力によってのみ生死が決められるのであれば、阪神淡路大震災、東日本大震災によってお亡くなりになられた方々には、自力が足らなかったのであろうか。否、決してそうではない。

 命という自分の力だけではどうしようもならないものを考える時、自分が自分の努力と才能で生きているんだ、という我執の凝り固まりがほぐれていく。そして、また気づかされる。

 「自分は生かされている。」

 この気づきに至り、かつこの気づきが不動のものとなったと時、人は感謝を忘れず、いつも苦の中に幸せを見いだせるようになる。

 よくよく考えてみると、戒律を守り、止観を修められるものも、自分自身の力だけではどうしようもできないものの連関の中で生かされているという前提を脱しえない。歎異抄 第十三条中にはこのようなくだり(現代語訳)がある。

 

「またあるとき、唯円は私(親鸞)の言うことを信ずるかとおききになったので、信じますと答えた。すると、それでは私の言うことに背かぬのだな、と重ねて聞かれたので、はいと答えると…(親鸞は)例えば人を千人殺せ。そうすれば必ず極楽へ行くことができるとおっしゃった。

 聖人の仰せですが、私には殺せませぬ、と答えると、それではなぜ親鸞の言う事に背かないと申したのだ、と親鸞さんが言った。

 これでわかるであろう。人間が心にまかせて何でもできるなら、極楽に行くために千人殺せと言われれば、すぐに殺せるはずだ。でも、それがたった一人ですら殺す事はできない。それができる業縁ではないからだ。

 私たちの心がよくて、殺さぬのではない。また殺すまいと思っても、百人・千人を殺す時もある、と(親鸞さん)がおっしゃったのは、私たちが善を善と思い、悪を悪と思い、阿弥陀仏の願に助けられているということに気づいていない事を、言われたのです。」

 

 このように「私たちは他力(ここでは業縁と表現)の中で生かされている」、という観点から見れば、人の意思決定と行動の結果というものは、他力によって与えられた環境に大きく制限される。

 要するに、殺生をしないという戒律を守れるのは、そのような環境―生―を与えられたからに過ぎないといえる。逆に言えば、魚屋の子や、肉屋の子、農家の子に生まれれば、その多くが生き物の命を奪う道を歩んでいく。

 そもそも、人は自身が生きていくために何かを犠牲にするしか生きていけないのだ。さらに言えば、たとえベジタリアンであっても野菜の命を奪って生きているのであって、犠牲の上に命があるのに変わりはない。

 また私が戦争の時代―太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争―に生まれていれば、人を殺すという業を背負って生きていた可能性が大であったろうし、日本ではない地域、例えば中東に生を受けていたとしたら、憎しみの連鎖に否応なく巻き込まれ、人を殺す運命にあったろうと思う。

 そして、これらの事実を知らずして聖道門を絶対視し止観を修めるとすれば、人は悟ったかのような錯覚に陥り謙虚さが欠如し、かつ実際にある苦しみを軽視してしまう恐れがある。

 

3.おわりに

 以上を踏まえると、今私に命があって釈迦によって示された他力の救いの道に出会えたことは非常にありがたいことではないだろうか。

 そうして与えられた「私は生かされている」という気づきを大切にし常に忘れない努力―称名念仏という一番簡単な行と本願力への信心―をしていく先に、私のような煩悩の尽きない凡夫でさえ救われる道が歴然と開かれるのだろうと考える。

 それでは、皆様良いお年をお迎えください。

 南無阿弥陀仏                   崔智光 拝

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