このページでは、信者さんからよく聞かれる素朴な問いに対する答えをまとめております。
Q1. 統国寺が百済寺と呼ばれる由縁は何ですか?
統国寺が元来「百済寺」であったということは以下5点の歴史的遺物により証明されています。
1)元禄10年(1697年)の「喜捨文」
2)元禄16年(1703年)の「石盥盤(セッカンバン)」
3)元禄16年(1703年)の「上梁詩」
4)享保7年(1722年)の「鐘銘文」
5)黄檗四世独湛上人の直筆による「扁額」
1709年(宝永6年)に百済古念佛寺は黄檗宗邦福寺になるのですが、上記の5点は邦福寺になる前に百済古念仏寺と呼ばれていたことを明確に指し示しています。(詳細については下記をご覧ください。)
1)元禄10年(1697年)の「喜捨文」
この喜捨文は元禄10年(1697年)に日銅屋第二代善九郎が先祖供養にために大几を喜捨をした時のものですが、その末尾に「印法源書○○氣山古念仏百濟禪寺方丈」とあります。
ちなみにこの喜捨文中、日銅屋第二代善九郎の出自の部分については削り取られていました。後世の何者かがこの出自を隠蔽するために削り取ったと思われましたが、帝塚山大学考古学研究所による赤外線調査の結果、その削り取られた部分は「金」であることが判明している。つまり日銅屋第二代善九郎のルーツは「金姓西山」、即ち朝鮮半島をルーツとする渡来系であることが十分に察せられます。
2)元禄16年(1703年)の「石盥盤(セッカンバン)」
この石盥盤は同年4月に古田氏慈母のために喜捨されたものです。
上記の喜捨文と同じく1709年に邦福寺となる前のものですが、この冒頭には「和氣山百濟古念佛禪寺」と刻まれています。
3)元禄16年(1703年)の「上梁詩」
この上梁詩は同年6月に讃岐屋勘衛門が亡き母のために捧げたものです。
末尾に「和氣山百濟古念佛禪寺印法源」とあります。
4)享保7年(1722年)の「鐘銘文」
この鐘銘文は源性平野氏により喜捨された梵鐘に刻まれたもので、百済古念仏寺-邦福寺における寺伝について記しています。
その最中「…百済の観勒和尚を請じて住持演法せしむ。しかる後、推古天皇鳳輦をこの間に稽留すること七日、専ら念仏を修して遂に阿・観・勢(阿弥陀・観音・勢至)の三尊の慈容を西山に現はすことを感得せり。爾来念仏寺と称す。また、百済の義覚法師、この寺に居住す。」とあることから、当寺と百済との密接な関係があったことが明らかに示されています。
5)黄檗四世独湛上人の直筆による「扁額」
この扁額は法源和尚の師である独湛和尚の直筆で、4編から成ります。
その4編目において「浪花掲播来朝百済各(参)同念佛度人」とあり、これもまた邦福寺になる以前は百済と非常に因縁が深いお寺であったことがわかります。
以上5点と檀家さんへのインタビュー、金剛組会長他の証言を鑑みるに、1709年に邦福寺となる以前は当時は百済寺、正式には百済古念佛寺、もしくは百済古念佛禅寺と呼ばれていたことに疑いの余地はありません。さらに言うならば、難波の百済寺は堂ヶ芝廃寺に比定されるものの、それ自体が百済寺が複数存在していたことの可能性を否定することにはならないことを踏まえると、堂ヶ芝廃寺の存在によって当寺が百済寺ではなかったという証明にもなりえません。
[追記] 全国寺院年鑑に記された、統国寺前身の邦福寺の由緒。 天仁年間(1108-1110年)に、百済古念仏寺として開創されたと明記されている。
Q2. 邦福寺はどのように統国寺になったのですか?
1970年、1972年に当時の大阪府知事が認証した宗教法人の規則変更に則り、邦福寺から統国寺への名称の変更が完了しました。
これは大阪府の正式な認可を受けたしごく合法的なものであり、これに関し問題は一切ありません。
Q3. 総聯(在日本朝鮮総聯合会)系のお寺ですか?
当寺が所属している在日本朝鮮仏教徒連盟の成立は1948年8月であり、当時朝鮮半島に2つの分断国家が確立しておらず、また総聯も存在していませんでした(※総聯の成立は1955年5月25日)。
したがって、元来より当寺が総聯系の寺院であったとは言えません。しかし総聯結成後、多くの信徒が総連に加盟するにつれ、その祭祀を司る当寺も総聯との関係が深まることとなりましたが、当寺の信徒がすべて総聯に属していたわけではなく、そういった信徒も含めたすべての同胞に対し仏教・伝統儀式を分け隔てなく挙行してまいりました。
現在では元曉大師の和諍の思想の下、北・南(ニューカマーの方を含む)・日本の差異を越えて仏教・伝統儀式や布教に努めることで、和合を具現する寺院となるべく日々精進いたしております。