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 当寺は、「和気山統国寺」といい、釈迦三尊を本尊とする単立寺院である。

 境内地は、大阪市天王寺区茶臼山町の史蹟南部に隣接し、天王寺公園に接して自然樹林の林立する聖域である。この地が難波の百済寺(難波百済大別王寺)であると比定されている説もみられ、朝鮮の由来を継承する相応しい雰囲気の立地で、北面する舞台造り朱欄干から茶臼山池(河底池)を望む景色は、四季を通して美しい絶景で、大阪の名勝としてよく知られている。
 統国寺の由緒は、聖徳太子の創建になる名刹で、百済の僧観勒(かんろく・・・・602年に来日し、暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられている)が開山住持として招かれ、推古天皇の帰依により厚遇を賜った。寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)には帝が専修念仏して、西山に阿弥陀、観音、勢至の尊姿を感得したのにちなんで、別念仏寺とも称されたとある。
 創始期は珍しい法相宗(唐の慈恩大師が識・・シキ・・以外のものは存在しないと説いた仏教の一宗。天興寺の道昭が入唐して三蔵法師からこの宗を伝えられ、持ち帰ったといわれる)を伝えていた。また『日本霊異記』には当寺に住していた百済の僧義覚と僧慧義は般若心経を念誦して不思議な霊験を得たと伝えている。

 元和元年(1615年)の大阪夏の陣では、徳川方に加勢した為か真田幸村軍によって、全山消失の憂き目にあったとされる。だが、これより74年後の1689年に当時の高僧であった法源和尚(伝承によれば父は後水尾天皇、母は後の東福門院となった徳川和子であるという。黄檗宗の僧で独湛和尚の弟子となった)により再興せられた。現在大雄宝殿に奉安されている本尊は、法源和尚の篤信家であった金(西山)氏の喜捨になる釈迦三尊〔『古念仏百済寺喜捨文』(元禄10年)〕である。
 さらに、これより20年経た宝永6年(1709年)に、黄檗四代独湛(どくたん)和尚を招請して中興開山とし、黄檗宗(おうばくしゅう)に属して寺名を邦福寺(ほうふくじ)と改め、また近くの和気清麻呂が開いた和気堀にちなんで和気山の山号をつけたとされる。その当時の正式名は和気山邦福寺である。現在本堂内陣の四柱に掛納されている独湛和尚直筆の大扁額には、「梵刹構成帝網交参真殊勝、法幢高竪雅燈纏焔永輝煌、和気薫蒸流出一源直接曹溪正脈、浪花掲播来朝百済各同念仏度人」とあり、本寺の歴史的な法燈の位置付けを的確に現している。

 邦福寺時代は黄檗宗の別格寺院に相当し、厳しい修行に挑む大勢の雲水(修行僧)が修行していた。そのため雲水寺と呼ばれ、当寺の界隈は活気に満ちていたはずである。『摂陽群談』によれば、境内に温泉が湧出したので湯屋寺とも呼ばれとある。また「遊息亭」で普茶料理が出されていたことが、名残として阪口楼の普茶料理として現在も残っているのである。
 当寺は古くより文化人の愛する名勝で、多くの著名人が文化社交の交際場として来訪しており、斉藤茂吉のアララギの大阪歌会もここで頻繁に催されていた。斉藤茂吉、杉浦明平、高安やす子なども往来していたという。墓地に広瀬旭荘(漢詩人)、藤井藍田(漢詩人)、間長涯(天文学者)、河竹能進(狂言作家)、中村歌六(歌舞伎)など江戸時代の文化人のものがあり、茶道煎茶で有名な田中花月庵が奉祀した急須塚も祭祀されている。

 昭和44年には在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、「統国寺」と命名されて再興された。爾来脈々と法統を重ね、初代金星海、二代張泰成、三代徐泰植、当代崔無碍と継承されている。現在は朝鮮・韓国の仏教儀礼と伝統儀式を挙行しつつ、元曉大師の和合の精神の下、朝鮮・韓国・日本の差異を超えて仏教儀式・布教を幅広く行っている。また納骨堂に朝鮮人殉難者達の無縁仏、本堂に平和大念珠が奉安されており、諸精霊の供養を通して世界とアジアの平和を日々祈念している。

 主な建造物に大雄殿(本堂)・大庫裏・大講堂・会館・納骨堂・六角鐘楼・鉄門・庭園・舞台・統国寺霊園などがある。

※資料紹介 崔無碍著『百済念仏寺の謎を解く』(統国寺刊 平成2年7月1日発行)

統国寺 〒543-0063 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-31
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