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第六十四回「仏教の信」~人生の苦をいかに越えるか その参

 山を登る時、人々はその山頂~一番高いところ~を目指す。

 しかしそのたった一つしかない頂きへ向かう道は一つではない。無数にある。

 宗教でいえば、すべての宗教が目指す頂きは…すべての人々が幸せになること。

 そしてその道は宗教の数だけある。

 キリスト教、イスラーム、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道、そして仏教と枚挙に暇がない。が、問題は頂きへの道が互いに異なるからといって、他の道を間違っていると批判し、争っていることだ。

 歎異抄ではいう。

 このごろのように、念仏を一心に信仰する者と、それ以外の宗派の者とが議論して、「自分たちの宗派が正しい。他の宗派は劣っている」と主張しあえば、お互い敵同士にもなるし、また攻撃したり謗りあうことにもなる。これは結局、みずから真の念仏の教えを軽んずるだけのことなのだ。(五木寛之訳)

 また元曉さんも十の和諍の道を説かれている。

 同じ頂きへと登っていく道なのに、その道程が違うからといって、他の道を批判し、他の道を閉ざそうとするのは、非常に愚かで嘆かわしいことではないだろうか。

 これを踏まえた上で、今回は仏教の道について、私なりに考えてみたいと思う。

 もちろん、仏教の中にもさまざまな道が存在する。

 念仏の道もあれば、禅の道もあれば、即身成仏の道もある。
 これらの道を大きく分けると、自力を重んずる道と、他力を重んずる道とに分けることができるが、今回は他力の道を中心に考えてみたい。

 

 

 

 …そもそも道とは何であろうか?

 色々な解釈があるだろうが、ここでの道とは人生そのものとしたい。
 つまりいかに生きていくか。

 では次に道を成すには何が必要とされるのであろうか?
 前に進むことが必要だ。前に進むことで、道が拓かれる。
 そして様々な困難がつきまとう人生を前へ、前へと歩く力を与えられる事が道を成す条件だと考える。そう、人生を生き抜く力を与えられることが絶対的な条件となる。

 そしてこの人生を前進し、道を成す力の源泉は、前回の二作で述べてきたように…「信」。

 この信を心の支えと言い換えてもいいだろう。

 すべてが不確実な世の中で、確実なものとして人々が認識し、心の支えとなりうるものが道になりうる。そして、それを人は欲する。言うならば、人は人生という真っ暗闇の中を、ところどころに灯っている『信』という火を手がかりに、少しずつ前に進んでいるといっていいだろう。言い換えれば、真っ暗闇な道に、何か光が見えるから、そちらに歩を進めているとも言えるだろう。この信という光がなければ、人は人生という名の暗闇の中を前進することは難しい。
 これが宗教だけでなく、夢や希望、思想や主義、はたまた家族や仕事、そしてお金さえ信になりうる由縁だ。光は各々の認識によるからである。とどのつまりは、その人の心にとって、光であれば、それは信となるのである。

 

 ではなぜ「信」を人は欲するのだろうか?

 それは先述したように、この世がしごく不確実だからではないだろうか。この世がしごく不確実がゆえに、人生は何か暗闇のように感じられる。そして、すべてが不確実であるがゆえに、人は揺らがない確実なものを欲す。

 例えば日本や韓国では教育熱が非常に高いが、これはなぜか?
 親からすれば愛する子供たちによりよい安定した人生を送ってほしい。この願いはいい大学に送ることで、それがある程度叶うであろうと多くの親は考えている。この前提の下、受験戦争に邁進する。しかしそれはあくまで確率論でしかない。…いい大学にいくことによって、人生の幸せが保証されることはない。たとえ、東大を卒業しても、フリーターになる時はなる。はたまた財務省に入省し、運よく事務次官まで上り詰めたとしても、そこにはそれ相応の苦が存在する。逆に平々凡々と生きるにもありとあらゆる苦が現れる。…この原因から結果にいたる過程は千差万別であり、その結果に人智は及ばない。


 これをまた象徴するのが、達磨不識の法話だ。
 このような人生の不確実性がゆえに、達磨さんは梁の武帝の三つの問いに対して…

 一つ目の問いに人に功徳の全貌を見通すことは不可能であり、
 二つ目の問いに人に善悪を決める力はなく、
 最後の問いに存在もあってないものと答えたと考える。

 

 また親鸞さんは歎異抄の中でこう述べる。

 「善悪の二つは、人に見通せるものではない。なぜならば、善悪は結果であり、その結果は人智が及ぶところではなく、如来~神仏のみがすべることができるからである。この煩悩から離れられない人々が暮らすこの世は、その実、とどまることを知らず諸行無常であるがゆえに、すべてのことが仮の姿ということができる。このすべてが不確実な世で念仏は確実なものになる」

 (五木寛之訳 そもそも、何をさして善というのか、悪というのか、私は知らないし、まったくわからない。もし仏がはっきり善であると認めたり、悪であると認めたものなら、たしかに間違いないだろう。しかし煩悩にまみれた凡夫であるわれわれの暮らすこの世は、燃え落ちる家のようにはかなく無常な世界であり、すべては空虚な、偽りにみちた、評価のさだまらないむなしい世界である。真実はどこにも見あたらない。その中で念仏という行為だけが、はっきりとした真実として存在し、人々の心を支えることができるものなのだ)


 上記のように人生の不確実性だけを踏まえる時、この世は「一寸先は闇」であることがわかる。そしてその闇に落ちれば、底なしのような苦にまみれる。問題はいつ、誰に、何が、どのように苦が起こるか誰もわからないということだ。

 すべてのものは永遠に確実なものになりえないという真理において、しごく確実のようなもの~お金も、家族も、主義も、そして宗教も例外なく、苦へと変化する。そして確実なものが諸行無常の中でもろくも崩れさろうとする時、人の心はしごく不安になる。

 お釈迦さんはこれを四苦八苦と諸行無常とおっしゃった。



△この世が不確実な理由~四苦八苦と諸行無常

 人は生を受ければ、必ず老いる。そして必ず体が弱り、人である限り…いつか死を迎える。この老、病、死を身近に感じる時、自ずと苦が顔を出す。

 特にいつ死ぬかわからない、という恐怖と不安が人を苛む。この苦は人生を通じて、人につきまとう。

 またこれら物理的に不可避な生老病死という苦に加えて、人生を生きる過程で生じる苦が四つある。この人生を歩む過程で生じる苦を考える上で、要は人は一人では生きられず、人と人との係わり合いの中で生きていくことだ。社会を生きる中で、人は必然的に、四つの苦を感じるようになっている。

 一つ目は愛する人との別れだ。縁がなければ、人は結ばれない。そして永遠の愛はない。いくら愛し合い、長く連れ添った老夫婦にも、今生の別れがいつかはもたらされる。いつか必ず訪れる死によって。

 また人は人生の中で、相性の合わない人との出会いが必ずあり、苦に苛まれる。一人で生きられる人間はこの世になく、この社会が人と人との無数なるつながりによって形成されていることを踏まえると、これは不可避である。

 次に人には欲がある。その欲によって、人は何かを必ず欲しくなる。が、問題はその欲したものすべてが手に入るわけではないという事。…欲するものが手に入らない時、人は言いようのないもどかしさに苦しめられる。

 最後にそもそも人は他を認識するように造られているがゆえに、苦からは逃れられない存在なのではないか、というのがお釈迦さんの大いなる問いかけだ。

 例えば、死後3ヶ月ほど経った腐乱死体を見つけたとしよう。
 その腐乱死体も三月ほど前までは私たちと同じく生きていたのだが、その死亡前の生存時にその人を見ても、私たちは別段何も感じない。しかし三ヵ月後、私たちの眼がそのぐちゃぐちゃに腐った身の中にうじがうごめいているその腐乱死体を認識する時、言いがたい気持ち悪さが催される。たとえ眼をつぶっていたとしても、私たちはその苦からは逃れられない。なぜなら、鼻がにおいを認識するようにプログラミングされているからだ。とめどない吐き気を催させる腐乱臭を自らの意識と別のところで鼻が認識してしまう。

 このように他を認識する機能を備えているがゆえに、人は苦を感じざるを得ない。

 このような苦は人生のいい時にはじっと身を潜めている。いい時にはさして気にならず、何でもないことのように感じられ、よしんばひょっこりと顔をだしたとしてもたやすく乗り越えられる事のほうが多い。もしかすると、苦と認識しない時さえあるかもしれない。

 しかし前述のようにこの世は諸行無常、いい時ばかりは続かない。これが人生の妙なるところだ。

 景気がいいときが永遠に続くなどありえない。

 そして景気がいい仕事などないがゆえに、永遠に存続する企業などない。ビッグスリーと呼ばれた米国自動車企業三社の没落がこのいい例だろう。ゆえに収入が100%保証される続けることなどない。

 これは企業に限って起こることではない。

 家庭内の問題も月日が経つにつれて提起される。いくら親がうまく子や孫の問題を処理するとしても、ひ孫の面倒までは見られない。その前に死が訪れるがゆえに。死によって、家族のバランスの再構築が必ず提起される。

 また国家という概念が生まれた時から、どれほどの国家が生まれ、滅んできたことだろうか。この移り変わりを踏まえれば、国でさえ永遠なものではない。

 
 諸行無常であるがゆえに…人生必ず悪い時が来る。

 この時、諸行無常の波は人々の心のよりどころ~「信」を無慈悲に奪う。これまでの確実だと思っていた「信」~仕事、お金、そして家族~が崩壊していく。仕事を失い、無一文になり、家族が散り散りとなって、心の支えを失った人々にとって、四苦八苦の苦しみは急激に増幅してゆく。また不慮の事故で子供を失った母親、逆に母親を失った子供もしかり。そのような業縁に落ち、心の支えをなくした絶望の淵で、人生を前に進められる人がどれだけいるだろうか?


△すべての人がいつでも持てる「信」を追い求めて

 問題はこのように諸行無常の廻りのなかで信を失い、苦の中でもだえる人々にいかに再び信を持たせるか。

 そしてこのような苦の中にいる人たちでさえ、いつでもすぐに持ちうる確実なもの~「信」とは何か?をお釈迦さんは模索した。

 そしてたどり着いた一つの答えが…



 「阿弥陀仏」であった。

 阿弥陀仏こそが仏教の信の集大成であるといっても過言ではない。

 

 阿弥陀という仏はもとは法蔵という私たちと同じ人間であった。

 この法蔵が四十八の誓いを立てた。

 

 その中で法蔵は誓う。

 「悪(不善)ということばが残っている限り、私は衆生を救い続ける。」

 

 これが、阿弥陀仏が西方の極楽浄土にいて、すべての人々を救い続ける由縁だ。

 悪といってもここでは、一般的な意味での悪のみをさしているのではない。ここでの悪人とは私を含むほとんどの衆生に当てはまる。なぜならば悪を心に秘めていないものなどなく、そして罪を犯さずして生きているものなどないがゆえに、だ。

  
 さらに理解を深める為に親鸞さんの言葉を借りよう。

 「(南無阿弥陀仏と唱える)念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ、地獄に落ちたとしても、私は断じて後悔などしません。そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることを、つね日ごろ身にしみて感じているからです。…煩悩にみちたこのわたしにとって、念仏以外のほかの行は、とてもおよばぬ道です。ですから地獄は、わたしのさだめと覚悟してきました。…要するにわたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏をして浄土に行く。それだけのことです。(五木寛之P15)」

  「念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない」…念仏ですらも多面的であると点をも、念頭に置かれているところに親鸞さんの思考の深さが感じられる。そしてまた次にそのようなことはどうでもよい、と続けられたところに親鸞さんの阿弥陀仏への信の深さがある。

 

 さて、こう前提しておいて、親鸞さんは「なぜわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であるのか」についてこう説明を続けられる。

 「善人ですら極楽浄土に往くことができるのであるから、ましてや悪人は当然往くことができる。しかし世間の人は常に、悪人ですら極楽にいける、ましてや善人は当然ではないか、と考える。この考えは一見筋が通っているようにみえるが、阿弥陀仏の本願に反している」

 「煩悩の尽きない私たちがどんな行をしてもこの世のしがらみから離れられないのを憐れみ、願を起こした真の意味は、悪人である私たちのためである。がゆえに、他力~阿弥陀仏の本願を信じる悪人はもっとも極楽浄土に行きやすい。(他力に気づいていない)善人ですら極楽へ行くことができるから、ましてや悪人が極楽にいけないことなどあるわけがないといわれたのだ」

 

 そもそも欲は尽きない。そして欲も一長一短、使いようによって善にも、悪にもなる。
 欲がなければ、生きる気力は湧いてこない。
 逆に欲が過ぎれば、災いのもととなる。このバランスを常に絶妙に保てる人を聖人というのだが、これはなかなか一般の私たちには難しい。

  …親鸞さんは9歳の時、比叡山天台宗に出家し、その後二十年間修行なさった。その間、90日間、南無阿弥陀仏を唱え続ける常住三昧の行も修されたという。この修行の上で、親鸞さんは自力ではなく、阿弥陀仏の他力によって救われる道を説いている。

 

 では、なぜ他力なのか?

 それはこのように業を背負っていないものないがゆえにだ。

 親鸞さんはいう。

 最後の文~「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人ころすこともあるべし」~は第十三条にある。前後を書き足すと…

 「またあるとき、唯円は私(親鸞)の言うことを信ずるかとおききになったので、信じますと答えた。すると、それでは私の言うことに背かぬのだな、と重ねて聞かれたので、はいと答えると…(親鸞さんは)例えば人を千人殺せ。そうすれば必ず極楽へ行くことができる、とおっしゃった」

 「聖人の仰せですが、私には殺せませぬ、と答えると、それではなぜ親鸞の言う事に背かないと申したのだ、と親鸞さんが言った」

 「これでわかるであろう。人間が心にまかせて何でもできるなら、極楽に行くために千人殺せと言われれば、すぐに殺せるはずだ。でも、それがたった一人ですら殺す事はできない。それができる業縁ではないからだ。」

 「私たちの心がよくて、殺さぬのではない。また殺すまいと思っても、百人・千人を殺す時もある、と(親鸞さん)がおっしゃったのは、私たちが善を善と思い、悪を悪と思い、阿弥陀仏の願に助けられているということに気づいていない事を、言われたのです」

 「(しかし)まったく悪は極楽へ行くための障害になりません。(善行とされる)戒律を守ることによってのみ、阿弥陀仏の本願を信じることができるのならば、私たちはどのようにこの世のしがらみを離れることができるのでしょうか?このような欲の尽きないあさましい身も、阿弥陀仏の本願に出会って初めて救われるのです。かといって、(先ほど申し上げたとおり)身に備わっていない悪業は、自分で作ろうと思っても、作られるものではない。また海・河で魚をとり、釣りをして生きている人も、野山でいのししを狩り、鳥を獲って命をつないでいるも、商いをし、田畑を耕して生きている人も、みんな同じ欲が尽きない人間なのであります。」



 宿命的に自力ではどうしようも救われない人々でさえ、他力によって必ず救われる。
 
 もし自力にて人が救われるか否かが決まるならば、すでに業縁によって苦にまみれている私たちが救われることはない。そして実際には、業がなき人間などいない。すべてが何かの犠牲の上に立っている。米を食べる人は米の命を、パンを食べる人は小麦の命を、たとえ野菜しか食べないとしても、野菜の命の上に、命をつないでいる。これを認識しようともせず、ただ自力~自分がよくやったから~のみを見ているとするならば、阿弥陀仏の光はいまだ遠い。




 わが祖師、元暁さんは大乗起信論疏においてこう説かれる。

 「止観を修して信心を成就することが困難な人々は、浄土に生まれることを願って浄土に往生すれば、常に阿弥陀如来を見ることができるから、仏道を退転しない。」(信の佛道 藤能成著)

 

 すでに業縁によって苦にまみれている衆生をも救える。ただ…阿弥陀の光を信じれば。

 ここに仏教の慈悲があふれている。そしてこれがまた阿弥陀仏が四苦八苦であり、諸行無常のこの世においても決して「ぶれない」理由だ。

 この慈悲の道を考えるに、ここに至らせる阿弥陀仏という永遠の光は仏教の最高の結晶といえる。これを空海さんは「菩提心を因とし、慈悲を根とし、方便を究竟とす」と表現したのだろう。

 そしてこの光によってこの道に至りたいと思った瞬間に、あなたはすでにこの慈悲の光の中にある。

 

 阿弥陀仏という光によって、死はその真の姿を現す。
 
 私が考えるに死は海に似ている。

 …小さな泉から湧き出る水はやがて、川を成す。そうして造られた無数の川もいずれは海に流れ込む。まったく同じ川~人生~などない。川の数だけ、形は異なる。しかし海~死~となれば、ただ一つの味となる。

 人間である限り、必ず訪れる死という人生のゴールをいかに自分の中で捉えるか。これによって人生は全然違うと思う。

 死をまっすぐに見つめると、死すらも多面的であることに気づく。

 苦に対する恐怖という側面と、苦からの解放という側面と…。

 苦からの解放からというゴールに気づき、人生のゴールとして常に意識する時、人はそのゴールに自ずと歩を進めるようになっている。

 ゴールがないマラソンを走りきれる人はいない。ゴールがあるから、人は走りぬくことができる。

 また死というゴールがないとすれば、人は生を尊いと感じられるだろうか。不老長寿の薬を飲めば、人はただ生きている時間を無為に過ごすだけだろう。そしてその無為すぎる時間はまた退屈という苦しみを何倍にも増幅することだろう。

 死の一長一短をまっすぐに観るとき…死は極楽のはじまりであるということを知る。そしてまたこの生の真の価値が観えてくるのではないだろうか。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無本師阿弥陀仏

                           合掌


追伸:

 仏教は底なしに優しい。
 仏教を信じないものですら、いつかは必ず極楽に往くと信じている。
 この器の大きさが、21世紀を対立の連鎖を止め、和合の世紀とするのに必要なのではないだろうか。

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