第六十八回「絶望をいかに生き抜くか」
なによりもまず、東北・関東太平洋大地震により尊い生命を失われた方々に対しご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様には謹んでお見舞い申し上げます。
アリとキリギリスの童話を子供と読む機会があった。
夏の間に一生懸命働くアリを横目に、あそびふけっていたキリギリスが、冬になって食べ物がなくなって困るあの話だ。すごく懐かしみながら、読み聞かせる。
読んだあと、ふと思った。
アリとキリギリスの違いは何なのだろうか…?
キリギリスにとっては自分から見えるものだけがすべてであった。だから見えている今をただ楽しむという行動となる。しかし、アリは今、自分に見えていないものもあるという事を知っていた。ゆえに、まだ見えぬ冬のためにせっせと働いたのだ。
要はゴールに到達するために、損して得を取れるかどうか。この差だ。
…昨年の成道会、つまりお釈迦さんが道を悟られた日に際し、法話を準備しながら、お釈迦さんの悟りについてあらためて考えてみた。
…お釈迦さんはなぜ悟りを追い求めたのだろうか?
それは…苦しかったからだ。
あくまで私見であるが…
悟りと言えば、何か崇高な、聖なるもののように思えるが、そうではない。
その始まりからすでにしごく人間くさいものであった。
お釈迦さんは約2555年前に実在した私たちと同じ人間。ゆえに私たちと同じように人生の中でもがき苦しんでいた。
「この苦しみを越えて、幸せになる術はないのか?」、沙羅双樹の下で座禅を組みながら、自己の中でこの問答を繰り返す。思考をどこまでも深めていく。
そうして21日目、ついにお釈迦さんは自分なりの答え~悟り~を見つけ出す。
まずお釈迦さんは縁について悟られた。
私なりに解釈すると、縁とは「他の総体」と言える。己以外のすべての有形無形の存在が縁だ。またこれを環境とも言えよう。
大切なのは、その縁が物事の結果に多大な影響を及ぼすという点だ。…私たちは直接的な因果~原因と結果~にばかり目が行ってしまう。お釈迦さんは、目に見える因だけが果をもたらすのではない、目に見えない縁が因とともに果をもたらすのだ、ということに気づく。
要は、縁が私たちの人生に、大きな影響を及ぼしている。
どのような縁を配されるか~どのような環境を与えられるかによって、結果が大きく違ってくる。
ここでわかりやすい例は、戦争と平和だろう。
商売をして、お金儲けをしようとする。そしてそのために一生懸命汗を流す。
ここで因は、労働。そして得ようとする果は、お金。
しかし、この因果関係は環境によって、だいぶ変わってくる。
平和という環境の中では、働くところが基本的にはあって、やる気があって働けば、それ相応の給料を得ることができる。
逆に戦争という環境を与えられれば、戦争に駆り出され、商売に精を出すどころではなくなる。お金のために働くよりも、国のために働くことを強いられるためだ。
そして、戦争という環境を生きるか、平和という環境を生きるか、を人は選べない。
そう、縁は人の思い通りにならないのだ。
お釈迦さんはさらに、この縁に対しての考察を深める。
一つは縁は…常に変化するということ。
また彼はこの縁の変化は一方向ではないという。つまり、いい時ばかりが続かないということだ。がゆえに、人生に苦は尽きない。
問題は、変化の方向が悪く出た時。この時、人は否応なく苦を感じ、時に思いもしない絶望に陥る。この悪い変化の中をどう生きるか。
この縁に対する考察を前提にして、お釈迦さんは次に…
人智の及ばない縁(環境)の中で、いかに苦を越えて、幸せをつかむかということを考えた。
そして彼はついに2つの道を示す。
1つ目の道では、彼は悪い変化~厄~を避けようとはしない。なぜなら、彼の眼からは悪い変化は四季でいう冬のようなもので、必ず人生でやってくるものだからだ。その不可避的な悪い変化を避けようとするよりも、その厄の中でいかに心をうまく使って、幸せを見出すか、を説く。
言い換えれば、心を安定させ、自分自身をまず見つめなおし、そして他をしっかりと観れば、いかなる縁の中にあっても、自分の幸せを見失うことはない。
お釈迦さんは人間が幸せを見失う原因を我執に求めた。
…人は見えるものに囚われるようになっている。
自分から見えるもの、例えば、自分の考え、自分の利益、また現在という空間に囚われる。
しかし、この我執の根は深い。
人間は元来、己に囚われるようにできているのだ。
この頃、子育てをしながらこの根の深さをつくづく思う。
何にも教えていないのに、赤ちゃんは自分のまんま、自分のおもちゃと主張する。
「まずは自分」、これはたぶん生物としての生存本能なのだろう。
そして、この人間の本質は生涯を通して、消えることはない。
お釈迦さんは、縁を観ながら、この己への囚われ~我執~から脱せなければ、自分の幸せを見失うと説いた。
我執に囚われている人、つまり自分の立場だけが見えている人はまず、人間関係がうまくいかない。なぜならば、社会には自分だけが生きているのではなく、その他の人々がいて、かつその他の人々はそれぞれ独自の立場を持っているからだ。我執に囚われていると、己の主観と他の主観が永遠にぶつかりあってゆく。
次に、我執に囚われている人は、変化への対応が後手に回る。今の自分に見えているものがすべてだと思うがゆえに、現在の自分を取り巻く環境が永遠に続くように錯覚してしまう。変化は少しずつ起こっているのにもかかわらず、だ。そしていざ変化が大きなうねりとなって表面化したときには、その変化についていけない。そして前述のように、変化は必ず訪れる。
また我執に囚われている人は、驕りが生じやすい。すべての成果を自分の力によって成したものだと思ってしまうからだ。
いい学校に入れたのも、恋愛がうまくいったのも、そして仕事がうまくいったのも自分の能力と努力のおかげだと考えてしまう。
しかし、そうではない。すべての現在の結果は、己の能力と努力にのみに起因しない。
…今流行のマイケル・サンデル先生(ハーバード大学の名物教授)はその講義の中で指摘する。
「以前にこんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、146校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたのだ。その中で、家族の所得がしたから25%に属する学生は、どのくらいいたと思う?わかるかな?最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生は、たった3%しかいなかった。70%以上が、裕福な家庭出身だったのだ。」
もしこれが事実であれば、経済的な背景が、優秀な大学に進学できるかの大きな要因ということ。…裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか、は私たちが選べない。
またサンデル教授はなおも能力と努力の社会的必要性を必死に説きながら食い下がる学生の意見を聞きながら、このような質問をする。
「では、君たちの中で、自分は一人目の子供だという人は、手を上げて。」
この質問にその講義室にいた75%以上の学生が手を上げる。
これが示す大切な点は「生まれる順番」がハーバードのような一流大学に進学する1つの要因をなしているということだ。
…自分の力で1人目の子供として生まれてきたものなどいない。
いくら能力や努力をしても、戦争の時代生まれれば、平時に比べその能力は開花しにくく、努力は報われにくい(在日1世のハラボジ・ハルモニのように)。
逆に今この日本に生まれれば、自分の能力を最大化するための努力は報われやすい。何よりも自分の夢を自由に追える。
そもそも、能力と努力の土台である「命」は縁の結晶なのだ。
ゆえに、自分で得られるものではない。
…仏教では、自分の能力と努力によってすべてを成してきたと考える人を盲目と見る。
盲目…、自分を支えてくれている他の総体である縁への感謝を忘れる。それがゆえにまた、自分の幸せを見失ってしまう。
その幸せを見失っていると気づく契機は、主に縁の変化による。
諸行無常、縁は常に変化していく。そしてその変化が悪く出た時、人は初めてそれまでの縁のありがたみに気づかされる。
お釈迦さんが言っているのは、この今自分が包まれている縁を正しく認識しなさいということだ。縁を正しく観れさえすれば、自分の幸せを見失うことはないと言っている。
仏教ではこれを「六波羅蜜」としてまとめている。
六波羅蜜とは、忍辱、精進、持戒、布施、禅定、智慧をいう。
そして、この6つをさらに自利、利他、解脱の3つに分ける。
私的解釈だが…
解脱に至るには、自分自身をまず見つめなおす必要がある。そのためには解脱に向かって、様々な困難を乗り越えるため耐え忍ぶことと努力が必要だ。そして次に自らを支える他に対する温かい思いやりを持たなければならない。
自利~己を見つめなおし、
利他~他を正しく観れば、
解脱~いかなる縁の中でも、自分の幸せを見失うことはない。
以上がお釈迦さんが示された1つ目の道。
しかしお釈迦さんは、さらに慈悲深く思考を進める。
…1つ目の道は言ってみれば、敷かれたレールは決まっているが、それをどのように走るかによって、景色が全然違って見えるということであった。
しかしお釈迦さんは、気づく。
最初から最後まで、決められたレールが暗い下り坂である人々~絶望にまみれた人々がいるではないか。
例えば、奴隷。生まれて死ぬまで奴隷である縁にあたった人に1つ目の道を行きなさいと言っても、それは簡単なことではない。その過酷な業縁の中で、心を安定させるのはすごく難しい。
あるいは、今回の大地震とそれに伴う津波、そして原発事故で絶望の淵にいる人達。
ただ福島に住んでいるという縁を配されただけ、彼らに何ら過失はない(原発利権に巣食っていた者たちを除いて)。が、彼らは今、絶望の中にいる。
そして言いがたい苦難を耐えている。ただその縁がゆえに。
このような業縁にある人々にいかに光を見せられるか…。
お釈迦さんは考えて考えて、もう1つの道を示される。
それは…
南無阿弥陀仏の道だ。
仏教には色々な道があり、それぞれが素晴らしい道ではあるが、この南無阿弥陀仏の道がもっとも、絶望の中にいる人々、つまり自力でどん底から這い上がる力を失っている人々のためになる。
南無阿弥陀仏を唱えれば、必ず、阿弥陀があなたの背中を押す。
そして最後には極楽浄土へと導かれる。
…これに科学的根拠はない。
しかし、経験則的な論拠はある。
日本には13の宗派が存在するが、その中で一番大きいのは浄土宗、浄土真宗などの南無阿弥陀仏を唱える宗派だ。
特に浄土真宗は非常に厳しい縁を与えられた民衆の中に入った。
…人間は自分にとって得にならないものは、捨てる。ましてや子孫に伝えない。
そして、阿弥陀仏信仰はこの人間の本質に沿って、厳しい業縁を生き抜いた人々が子孫に伝えてきたもの。
人生の苦を乗り越える上で、役に立ったからこそ、子孫に伝え、今最大の宗派となっているのではないだろうか。
また99歳の詩人、柴田とよさんをご存知だろうか?
彼女の詩集のタイトルは…「くじけないで」。
99年生きて、彼女が最終的に人生で一番大切だと思うこと。
それが、「くじけないで」というタイトルにつまっている。
阿弥陀仏は、そのくじけない心をあなたに与えてくれる。
ただ信じて、南無阿弥陀仏を唱えれば。
いや、ただ南無阿弥陀仏と念ずるだけでいい。
そして人生の絶望の中で、くじけずに、一歩ずつ前に進んでいく。
そうしてあきらめずに最後に人生のゴールを自らの足で切ったときに、必ずそこにはあなた自身の幸せが広がるだろう。
これはマラソンの感覚と似ている。
42.195kmを自分の足で駆け抜けてこそ、ゴールの瞬間の喜びを味わえる。
そして、この喜びはゴールをきりさえすれば、必ず味わえるものだ。
そう、必ず極楽浄土がそこにある。
…この苦難をともに乗り越えていきましょう。
くじけずに進み続ければ、光が日本を再び照らす。合掌
追伸:
李舜臣という李氏朝鮮時代の武将がいる。
彼は豊臣秀吉の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の時、物量面で圧倒的に不利な朝鮮を守るのに、軍神とも思われる決定的な役割を果たした。
その真骨頂は「鳴梁海戦」。
彼は、わずか12隻(一説には13隻)の艦隊をもって、300隻を越える豊臣軍艦隊に勝利したのであった。
この鳴梁海戦は物量的に圧倒的不利、常識的な計算で言えば、「死地」に等しい。
しかし、彼は勝った。
なぜか?
自軍・敵軍の戦力および戦況の冷静な分析と周到な調査と準備、義兵たちの奮闘など様々な要素があげられるが、1つだけあげろといわれれば私は…
「死」を覚悟したからだと思う。
彼の座右の銘は…
「必死即生 必生即死」。
戦場では、死ぬ覚悟で臨めば生き、生きようと思えば死ぬ。
これが戦場での鉄則だ。
…今、福島は戦場である。
そして福島での原発事故を最小限のダメージで抑えるため、自衛隊を筆頭に本当にがんばっている。頭が下がる思いでいっぱいだ。
この国を守る縁にあるのは、あなたたち以外にない。
ほかは誰も守ってくれない。
あれほど頼りにしていたトモダチは守ってくれないことは、今回で十分すぎるほど明白となった。
状況は厳しいが、このまま「必死即生」の信念を貫くならば、必ず活路が生まれる。
今、この国さえ守りさえすれば、それに伴う尊い犠牲は決して無駄にならないと確信する。いや、絶対に無駄にはさせない。
必ず日本の新たな夜明けへとつながってゆくことだろう。
統国寺(古寺名:百済古念佛寺)
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