第六十五回「心を真ん中に」
仏教を信じれば、みんなが幸せになれる…とは、お釈迦さんは言わなかった。
ゆえに彼は正直に、この世は四苦八苦~人生はしんどいなぁと思われる時は尽きない~といわれた。
この前提の下に、お釈迦さんは思考を深めていく。
どうすれば、この中で幸せになれるのであろうか…。
その一つの答えが…
見えるものを観て、見えないものを観れば、あなたの幸せは、すでにあなたの手の中にある、ということだ。
見えるものとは、部分ともいえる。
そして見えない部分はその対極、つまり全体。
どういうことかというと、見えるものとはつまり今自分が見ることができる範囲なのではないか。たとえば、現在。この現在に見えるものに人は大きな影響を受ける。
しかし、この現在は時の部分に過ぎない。現在は過去の果であって、未来の因、この3つが揃って、初めて全体となる。が、この「時の全体」を意識している人がどれだけいるだろうか。
次に己。自分の視点というものは常に自分の中で意識されている。
しかし、自分以外の個人の視点も歴然と存在する。この他人の視点を観られる人がどれだけいるだろうか。
…人は部分に囚われるようにプログラミングされている。
自我はどうしようもなく、他への視点に先んじて、芽生えてくるようになっている。
では、どうすれば全体を観られるようになるのだろうか?
二つのことが大切である。
一つは心を真ん中にすること。
もう一つは心に慈悲を持つこと。
心を真ん中にすることを定まるとも仏教では言うが、心を真ん中にするということは、心が何事にも囚われていない状態にあること。この状態があってこそ、自分の視点だけに偏らず、他の視点を意識できるようになり、事象があるがままに観えてくる。
心を真ん中に戻すために、お坊さんはお経を読み、座禅を組む。
お墓を参り、祭祀をすることも元は子孫たちが、全体をみられるようにご先祖様たちが遺された大いなる仕掛けであるとも言える。
お墓に参り、祭祀をする中で、現在だけがすべてだと思いがちであろう子孫たちはまず、過去を意識するようになる。「ご先祖様たちがおって、自分がおるんやなぁ」というイメージをぼんやりと持つようになり、これが自分の命は全体に~過去にも、未来にも~つながっているのだということが認識できるようになる端緒となっていく。
また、死の存在を漠然とでも意識するようになる。自分が持っている時間も限られているということを教えられる。
お釈迦さんは心を真ん中にするには三毒への対処が必要であるといわれた。
三毒とは貪欲、怒り、愚痴である。これらが心を真ん中にすることをじゃまする三大要素であるといえる。
この3つに共通することは、他への視点が欠けているということ。
貪欲は自分の視点だけに囚われ、他の領域を侵している。
そして争いが起きる。
怒りは自分への視点だけに囚われ、他を傷つける原因となる。
しかし時は戻らない。ゆえに、他を傷つけた罪は一生背負わなければならなくなる。
愚痴は、自分の視点だけに囚われ、他の悪いところばかりが目につく。
すべては一長一短で、自分にも悪いところは必ずあるのにもかかわらず。
そして、罪のないものなどこの世にいないにもかかわらず。
この3つには他への視点が欠けている。もっと言えば、他への視点の欠如は、他への思いやりの欠如ともいえる。つまり三毒を制し、心をうまくコントロールするには「慈悲」が必要なのだ。
では、どうすれば慈悲の心を持てるのだろう?
このコツには色々あるのだろうが、私は…
慈悲は罪の意識から生じると思う。
自分を罪のない完全な人間だと思っている人の心に慈悲は少ない。
パーフェクトと思った瞬間に、心が偏っている。
そしてまた…罪のない人などいない、と私は思う。
私も一長一短。ゆえに他も一長一短であるのが当たり前。
こうして慈悲を持ち、心を真ん中に保つ中で、第3の目が生まれる。
部分の総体である見えるものを見ると同時に、全体を俯瞰する目。
自分であって、自分から離れた客観的な目。
この第3の目を持ったとき、人生は四苦八苦といえども、幸せを見失うことはない。
いかなる山や谷に遭っても、第3の目が解決への一筋の光を照らす。
これは心の揺れの原因である環境は選べないがゆえに、なかなか難しい。が、これは今この瞬間から実践しようと思えばできるものであるということも事実。
この始まりにはお金も要らず、ただあなたの心にかかっている。
他への思いやりを持って、心を真ん中に。
そうすれば第3の目があなたの幸せを照らす。
合掌
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