第六十九回「なぜ脱原発に向かわなければならないのか」
今、福島第1原発事故は人類にこう問うている。
「人類はこの核という神の火をどう扱うのか?」
これに対する答えを、今時代が求めているのだ。
今回はこの間、私なりに長考し、その神の火の使い方のひとつ~原発~について出した結論について書きたい。
なお、今回はメディア等で報道されている事実関係を土台としながらも、主として思想的に原発問題の深層に迫りたいと思う。
今回長考となった理由は、すべての事象は一長一短であり、かつどちらの面が出るかは、それを使用する人の心によるからだ。
ここに一本の包丁があるとしよう。
温かい心をもって、その包丁でおいしい料理を作れば、その包丁は人々に至福の時間を与えるものとなる。しかし逆に、憎しみをもって使えば、人を殺すこともできる。
すべてはそれを用いる人の心次第だ。
この点からは、原発もそれを使う人次第ではないか、と考えたわけだ。
事実、原発は大量のエネルギーを産むのに適しているという長所がある。
また軍縮に用いられているという側面もあった。
次に長考となった要因は、今、原発で生計をたてている人々の生活はどうなる、という問題であった。
仏教では、すべての結果(果)は、直接的な原因(因)のみによって決まらない。
自分の才能や努力だけではどうしようもならない間接的な原因(縁)がこの因果に大きく作用するからだ。
…ここにほぼ同じ能力を持つ2人の子供がいるとしよう。そしてこの両方の子供が学校に行きたいと思っている。
しかし与えられた縁~環境が異なる時、この結果は随分と異なる。もし1人が裕福な家庭に生まれ、もう1人が貧困にあえぐ家庭に生まれたとしたらどうだろうか?
裕福な家庭に生まれた子は、何の不自由もなく教育を受けることができるだろう。翻って、もう1人の子は学校に行くよりも、その日その日を生き抜くために働かなければならないかもしれない。また、現在の平和で裕福な日本に生まれた子供たちと、アフリカや中東で生を受けた子供たちが、同じ生き方をできるだろうか?
その答えは明確に…否だ。
これを東京電力の社員に当てはめてみるならば、自分の意思で東京電力に就職を希望したにせよ、縁がなければ就職できない。
もし縁がなく~例えば実力などがあまり関係ない面接で落とされるなどして~、他の会社に就職したならば、その人は今頃、東電の災難を他人事として傍観していられる。が、逆に縁があって、東電あるいは東電の関連企業に職を得ていた人は今大変だ。
この福島第1原発事故が収束した後も、賠償問題などで未来にわたって不安が大きく残ってしまう。
そしてまた思考を巡らせば、この福島第1原発事故の前に定年まで勤め上げることができた人もいることに気づく。
この人たちは、準国営企業と呼ばれた東電のエリート社員としての栄光を一身に受けながら、基本的には何ら心配のない日々を過ごした。
逆に今年、入社した若者たちはどうだろうか?
競争を勝ち抜き、やっと安定した職を手にしたと思ったら、あの事故が起き、現在とめない不安にかられている。
彼らにとって定年までの道のりはあまりにも遠く感じられることだろう。
この両者を分けたもの、それは才能や努力などではない。
ただ、どのような縁を配されたかということのみだ。
そしてまた、原発をめぐるもっと大きな構図に目を向ければ、原発の輸出は日本政府にとって、サブプライム・ローン問題後さらに下向きとなった日本の経済を立て直す上で、非常に重要な位置を占めていたいう現実があった。
国民を食わせていかなければならない…、この観点からも、もしかしたら原発は必要なのかもしれないという事が頭によぎった。
このように思案を繰り返す。
そうして得た私なりの結論は…
原発は段階的になくすべきだ、という事であった。
この理由は3つある。
△3つの理由
まず、この1つ目の理由は…
原発には、現在のところ「特効薬がない」からだ。
今回の震災で明らかになったのは、まず…複雑な構造を持つ原発は自然災害にしごく弱いということ。
次にこの放射能流出に対処する過程で露呈されたのは、今回のような事故が起こったとき、色々なごまかしを言っていても、現実的には放射能を閉じ込める以外に成す術がないということだ。
「放射能を閉じ込める以外に術がない」
…この事実を知ってしまった以上、私たちは原発を推進することが、本当に国家、そして個人の幸福につながる道なのだろうか?ということが問われなければならない。
ましてや日本は地震大国なのだ。これから自然災害が起きるたびに、放射能漏出事故が国民の生命だけでなく、安全保障と経済を脅かすリスクにおびえ続けることが、本当に日本のためになるのだろうか?
百歩譲って、原子力村の住人が言うように、万が一事故が起きなかったとしても、使用済み核燃料の処理には地下深くにただ埋めて10万年の監視が必要と言われている。
これは実質的に放射能の処理には薬がないということを自ら吐露しているようなものだ。
現時点において放射能に対しての特効薬がないがゆえに…
すべては後世へのツケとならざるをえないというわけだ。
それも10万年という期間のツケである。
統国寺の横に茶臼山古墳があるが、それが大体今から1300~1400年ぐらい前のもの。
それですらも、まだその用途が完全に解明されたといえない。その100倍の期間、10万年もの間、本当に人類によって継続的な監視が可能だと考えるのであろうか?
この日本には最終処分場が存在しないという事実は、より深刻な問題を提起する。
金に物を言わして、自国で処分できない高レベル核廃棄物を外国に持っていくことが許されるのか?という倫理的な問題だ。
事実、日本の経済産業省と、米エネルギー省は合同で、モンゴルに最終処理場を建設する案を推進している。
そしてこの問いはそのまま、原発の海外輸出を中心にすえている日本政府の経済戦略に向けられる。その危険性を認識しているのに、原発を輸出するのか?
いやいや、それは原子炉を受け入れる側に問われるべき問題であると主張なさる方もおられるだろう。
…今回の福島第1原発にある6基の原子炉は米国から輸入されたもの、あるいは米国の技術をベースに造られたものである。
前述の論理で行くならば、今回の原発事故の責任は米国から原子炉を輸入した日本自身にあるということになるだろう
そもそもその最終処理場に至る前段階で、原子力村の住人たちの夢の構想「核燃料サイクル」は破綻している。
高速増殖炉もんじゅ、六ヶ所再処理施設にて相次いで起こった事故はこれを象徴している。
この原子力発電を推進する中で過去に大小の事故が多発している事実、世界最高の科学技術を持つ日本といえども、一度大規模な放射能流出が始まってしまえば手に負えないという事実を鑑みれば…
放射能に対しての特効薬が現れない限り、原発を推進するべきではないと考える。
私が原発推進に反対する2つ目の理由は…
人はすべてを見通せないからだ。
言い換えれば、自分から見えているものがすべてではないという事でもある。しかし…
人はすべては自分の力によってどうにでもなるという錯覚を起こしがちであり、その慢心がまた貪欲を起こす。
そして貪欲によって曇った眼は、盲目に等しい。
なぜならば、貪欲にまみれた目は、自分が見たいものばかりを映すからだ。
結果として、自らの欲を満たすために、「今、自分が見えているもの」ばかりを見てしまうようになっている。
原子力村の住人たちがそのいい例で…
目に見える科学に基づいて原発安全神話を構築し、その原発安全神話を目に見える金をあふれんばかりに使って流布してきた。
なぜ?
原発が抱える巨大なリスクを隠して、自らの手の中にある目に見える利権を守るために。
興味深いのは、これと同じ「貪欲」から、東電の「想定外」の理論が構築されていることだ。
…原子力村の住人たちは、科学の力をもってすれば、原子力という神の火さえも思うがままに使いこなせると豪語していた。
しかしこれは3.11以後一転することとなる。賠償責任を最小化し、企業利益を防衛するために、「想定外」の津波という3.11以前は目にみえなかった要因によってあの事故が起こったという論陣を張っているのだ。
過去の大地震の記録に基づいて、地震・津波が来る可能性はあらかじめ報告され、多少なりとも国会審議会等で議論されていたことを見ると、あの福島第1原発事故は人災だということに議論の余地はない。
しかしそれ以上に、この論理は藪蛇だといえる。
なぜならば、人智の範疇の中にある因を超えた縁~想定外のことが起こることで、破滅的な結果~例えば放射能が漏れ、結果命に異常をきたし、人々の生活を破壊する~を招く可能性が少しでもあるのならば、そもそもそのようなものを動かすべきではなかったのではないか。
そしてここで重要なのは、この人智を超える出来事が起こる可能性(ブラック・スワン)は、永遠になくならないという事だ。
特に、地震大国である日本においては、いくら先進機能を備えた原発が登場したとしても、すべてを想定内におさめることはできない。
またすべては諸行無常。
この法により、すべてはいつかは壊れるもの。原発を含めたあらゆる機会もこの例外ではない。
この観点から、世界No1.技術大国の日本でさえ、このような大規模な放射能流出事故が起こってしまった事実はあまりにも重い。
以上のように、放射能漏出に対しての特効薬や絶対的な防御策がなく、想定外の要因は完璧に除去できないがゆえに、後世にツケにならない範囲で原発は段階的になくしていかなければならないと考える。
△非合理的な合理性
さらに思考を深めていこう。
次に3つ目の理由。
これは第1と第2の理由が花だとすれば、その根をなしているものだ。そして、私が段階的な脱原発を唱える最大の理由でもある。
この3つ目の理由とは…
20世紀の合理性を追求すれば、その行き着く先は非合理的な結末だからである。
…思考を深めていくと、原子力(=核)の根の部分には「20世紀の合理性」が歴然と存在していることに気づかされる。
私が呼ぶ20世紀の合理性とは何か?
…すべてが科学に基づいた実証主義の時代であった20世紀、その合理性とは自分から見える「効用」(幸せ)を最大化することであった。
ここでのミソは、自己の効用を最大化するためには、効用が測れるものでなくてはならないということで…
幸せを測定するための尺度が必要となる。
そのために20世紀において頻繁に用いられた物差し、それが…
金である。
そして最終的には幸せが金によって、可視化されていった過程で、人々は目に見えるものにしごく囚われていき、目に見えるものを至上とする社会が形成された。その中で、時にお金の価値は命さえもしのぐようになったのである。
もう少し具体的に言えば、個人主義と科学至上主義を土台とした20世紀の合理性が普及することによって、人々は「今ここに見える自分の利益」だけを追うようになってしまったのである。
この20世紀の合理性に基づく社会が宿命的に行き着いた先が…
まさにサブプライム・ローン問題であり、今回の福島第1原発事故だといえる。
言い換えれば、原発推進の原理とサブプライム・ローン問題を起こした原理は基本的に同じものなのだ。詳細を観てみよう。
まずはじめにサブプライム・ローン問題を観てみよう。
「今、ここに見えている自分の利益だけを追求する」、この思考方式が、社会的に最上の合理性として信奉されているがゆえに、サブプライムローン問題に端を発する米国のリセッション、そして世界金融危機が起こったといっても過言ではない。
米国政府、FRB、大手投資銀行、ヘッジファンド、格付け会社などの手によって、巧みに装飾されたキラキラと輝くサブプライム・ローン、そしてそれを証券化したMBSが売り出され、それを多くの人々が魅力的に感じ、次々と購入していった。
なぜ魅力的か?
見えるもの~例えば格付けであったり、それを売り出していた高名な投資銀行の名前であったり~だけを見れば、サブプライム・ローンとその関連株(RMBS)は自己の利益を最大化する最高の投資対象のように映ったからである。
そして実際に天文学的な金がこれと関連して、動いたのであった。
しかし、いくら外見を華々しく繕っても、株はリスクを伴うということには変わりはなかった。
株は膨らみ続ければ、いつかは弾ける。
金融の甘い蜜に魅せられた人々はその「見えないいつか」を見れなかった。いや、認識すらできなかった。
そしてまたこのリスクを認識していながらも、あえてリスクに目をつぶっていた一握りの人々も、その衝撃の度合いを読み間違えた。
なぜならば、いつ、そのリスクが顕在化するかということは科学的に実証されえないものだからだ。
要するに目に見えるものだけを追及する人たちにとっては、今、目に見えないものは存在しないのと等しい。
さらに目に見えるキラキラとしたサブプライムローンの輝きが、より一層彼らの目を曇らせた。ただ、今自分から見える利益を最大化するだけが彼らの合理性だったからだ。
しかしついに2007年、サブプライム・ローン関連の株によって引き起こされたバブルがはじけた。
このバブル崩壊がこれまでのバブル崩壊と違うのは、その余波が全世界に及び、金融市場だけではなく実体経済にまで多大な損害をもたらしたということだ。そしてこのバブルの仕掛け人である当の米国は今、デフォルトの危機に瀕している。これに伴い、米国は急速に力を失ってきている。
…20世紀型の合理的選択が非合理的な帰結となった顕著な例である。
そして原発の誕生からFUKUSHIMAに至る過程も、根本的部分でこれと通じている。
米国が原子爆弾を製造したのは、言わずもがな、自らの国益を最大化させるため。
その当初はその核による軍事的優位を保つために、核技術の独占する方向であった。
しかし、米国はある地点で原発推進に舵を切らざるえなくなる。
その発端は、ソ連が水爆実験を米国が成功したわずか9ヵ月後に成功させたことにあった。
ソ連に追いつかれた米国は焦った。さて、どうするか…?
結論から言えば、米国はどうせ追いつかれるのであれば、現在の自らの核技術の優位性を用いて、核ビジネスを推進し、金儲けしようと考えた。そうして足早にAtoms for Peaceの演説の原稿を仕立て、原子炉を輸出できるよう法律を改正したわけだ。そこに放射能漏出事故の危険性と核拡散の危機があると知っていながらも、彼らはその見えない危機にあえて目をつぶった。
なぜ?
…目に見える目先の利益を優先したがために。
今目に見えない危機よりも、今目の前にある利権の確保を優先する…それが彼らにとってもっとも合理的な決定であったのだ。
いくらその見えない危機がおぞましい結果をもたらすかもしれないとわかっていてもでだ。
この20世紀の合理性に基づいた判断が、引き続き核問題を悪化させていく。
これは1974年のインドの核実験以後も原子力ビジネスを推進したこと、さらに1986年チェルノブイリ原発事故の後でさえ、あれは旧ソ連下のずさんな管理体制において起きた特殊な事故として、原発を推進をやめなかったところに顕著に現れている。
次に日本においての原発の導入過程も、米国のそれと軌を一にしている。
…原発は日米の権力者のどろどろした欲の結晶として導入されたのであった。
そしてその原発は、「金と票」を産む金の卵として活用されていった。
これが原発は初めて導入された1970年から、年に1基以上のペース(54基/41年)で建造されてきた所以だ。
そしてこの産業構造に深く根付いた原発利権があまりにもぼろかったがゆえに、福島第1原発は当初30年と定められた耐用年数を過ぎても、稼動されてきたわけだ。
ここでも…それが危険であるとわかっていても、目先の利益を優先してきた事実が顔を出す。
ただその危険がいつ来るか見えないことをいいことに、原発を推進してきたのだ。
そればかりかマスコミと御用学者を総動員して構築した安全神話を用いて、その危険を民衆からより見えにくくさせてきた。
このようにして彼らは、自分たちの手中にある目に見える利権を強固に守ってきた。
…こうして内外の原子力利権を持つ権力者たちによって、軽視あるいは故意に無視されてきたおぞましい潜在的な危機が、ついにフクシマによって表面化した。ちなみに興味深いのは、震災後も日本の原子力村の人々は福島第1原発事故が起こったあとでさえ、依然目に見える目先の欲ばかりを追求していることである。一度利己的にしか思考できない状態~貪欲になってしまうと、容易に抜け出せないのであろう。
このように世界金融危機と福島第1原発事故は、目に見える目先の利益を絶対的に優先する20世紀の合理性の帰結は非合理的なものにならざるをえないという事をまざまざと物語っている。
しかし、それはある意味当然の帰結だといえる。
なぜならば…
見えるものだけを絶対視し、見える自分の利益を絶対化する社会では、見えないが必ずやってくる危険への対処が必ずおろそかになってしまうからである。20世紀型の合理性の下では、今のように危険が顕在化して初めて、人々は危険を危険として認識できる。
しかし、気づいてからでは遅いのだ。
特に核をめぐる対応をおいては。
いやいや遅くない、サブプライムにしてもフクシマにしても、結局はそのダメージも大きな意味では所詮は限定的、また復興すればいいだけのこと、また復興する過程で生じるうまみもあるじゃないか、という主張もあるだろう。
しかし、そのような考えも持っている人は、20世紀の合理性によって生じた最大の潜在的危機について気づいていない。
△人類が抱える最大の潜在的危機
このいまだ顕在化していない最大の危機を観るためには、そもそも核分裂を利用した原発はなぜ生まれたのか?についての考察が必要だ。
現実主義のアプローチをつきつめていけば、その理由は核保有をしている大国の都合であることがわかる。
彼らは基本的にいかに自らの特権である核の優位性をもって、自らの政治的、経済的影響力を拡大するか、しか考えていない。
そのために必要不可欠なツールの1つが原発であった。
これはまたなぜ原子力村が世界的にあれほど絶大な権力を誇るのかという謎を解く鍵となる。
…原子力=核なのだ。
すなわち、原子力産業は軍需産業なのである。ここに彼らの力の源泉と、容易に脱原発を唱えられない最大の理由がある。
そしてこの原子力=核という点を追求していくと私たちが直面している最大の潜在的危機に気づかされる。
…核拡散した世界においての戦争勃発の危険性である。
人類はその存在が地球上に現れて以来、争いを続けてきた。
そして国という単位が確立されて以後は、その衝突はより強烈なものとなってきた。
国家間の争いの主な原因は…現実主義から見た国益の衝突にある。まぁ、要は目先の利益を確保しようとするがゆえに、衝突が頻発してきたわけである。
こうした所以により、ウェストファリア体制確立以後は、個々の国家がただそれぞれの国益を確保しようとする中で、時に力の均衡(バランス・オブ・パワー)が保たれ、時に破れてきた。
つまり、戦争と平和が交互に起こってきたわけだ。
しかし、ここで注目すべきは、この国家間の衝突は時代を追うごとに激化し、戦争による犠牲が飛躍的に増加してきたという事実だ。
下の図で言うならば、世界の戦争犠牲者は16世紀から20世紀にかけて、最大で100倍になっている。
| 世界の戦争犠牲者 | 1年平均の犠牲者 | 1日平均の犠牲者 |
16世紀 | 160万 | 16000 | 44 |
17世紀 | 610万 | 61000 | 167 |
18世紀 | 700万 | 70000 | 192 |
19世紀 | 1940万 | 194000 | 532 |
20世紀 | 1億780万~1億6000万 | 107万8千~160万 | 2953~4384 |
※参照:World Military and Social Expenditures
ここで気づかなければならないのは、20世紀の犠牲者はほぼ通常兵器によるものだということだ。
つまり、厳密な意味で核戦争の犠牲者はいないということである。
人類はいまだ、通常兵器の威力を比べものにならない核を双方が使用した戦争を経験していないのだ。
…20世紀、ついに人類は核を生み出した。
これも自らの利益を一心に追求する20世紀の合理性の産物と言えるだろう。
この核の威力はすさまじく、第2次世界大戦後、この核による優位性と思想の求心力により、新たな力の均衡~冷戦が生まれたほどだ。
ここでも20世紀の合理性よって、自国の優位性を確保するための競争がただただ深化していく。
これが軍拡競争であった。
超大国は互いに自国の国益だけを追及し、また自分と同じ価値を持つことを相手に強いたがゆえに、米ソ間での対立は激化せざるをえなかったのである。
冷戦後、核軍縮ににわかに動き始めたものの、その動きは決して早いといえるものではない。
なぜならば、自国の国益を中心に考えた時、核を手放すというオプションはありえないからだ。
これは「核なき世界」を提唱したオバマ政権が、今年に入って新種の核実験を数回行っていることからも顕著である。
こうして、今この世界には、1発でこの地球の地図を変えることができる核弾頭が、2万を越えて存在する。(参照:Status of World Nuclear Force 2011, FAS)
問題は、国際秩序が不安定化してきていることだ。
この要因はサブプライム・ローン問題以後、冷戦後唯一の超大国として覇権を謳歌していた米国の力が急激に落ちてきていることだ。一方で次の覇権を狙うもの~BRICS、特に中国が顕著に力をつけてきている。
この新たな世界の力の多極化によって、世界はまた覇権を争うバランス・オブ・パワーの時代へと突入した。そして、この世界はいまだ力の均衡点を見出していない。
均衡の不在ということは…
この世界が不安定であることを示している。
歴史上、力の均衡が崩れ不安定化した時、あるいは均衡の構築過程で力と力が衝突してきた。
過去2度の世界大戦がこのよい例であろう。
が、ここで留意しなければならないのは…
これまでの力の衝突においては、核がなかったという事だ。
WW2で核が使用されたではないかというご意見もあるかもしれないが、先の対戦で米国が核を使用したのは、戦局が決したあとであったし、何より核は米国一国の手の中にしかなかった。
しかし、今は…
核を保有しているのは米国だけではない。
少なくとも米国のほか8カ国が核を保有し、かつさらに核が拡散する可能性がある。
大国のみならず、核保有した新興国の登場は軍事上、大国の力が相対的に落ちたということを如実に示している。
つまりは核管理体制にひびが入りはじめているということだ。
今、この不安定化した核管理体制を再整備しようと、米国はあの手この手を使って躍起になっているが、その急激に落ちている国力では前途多難、いやデフォルト問題に直面している現状では到底無理と言えよう。
この不安定な現状下では、長年懸念されてきた潜在的リスクが一層現実味を帯びてくる。
1つには、核戦争のリスクだ。
これまでのように米国ほか大国が同じ価値を押し付ける覇道を行こうとするならば、だんだんと、核ミサイルを打ち合う世界大戦が現実味を帯びていく。
次に核テロリズムのリスクだ。
この核戦争、あるいは核テロリズムというリスクは、サブプライム・ローン問題、フクシマが見せたようにどこまで科学的に分析しようとも、その顕在化する時期についての予想は所詮不可能である。が、それによるもたらされる結果は、予想通り壊滅的なものだろう。
サブプライム・ローン問題…
フクシマ…
そして、核戦争…
これらは、人間の見えるものに囚われるという性質と、人間の欲には際限ないという性質を最大限に利用し、個人の自由を極端に聖域化することによって、社会発展を成し遂げんとするモデルは、最終的に大きな破綻をもたらしうることを如実に物語っている。
そして、ここに至れば…
今、人類はこの破滅に向かう道を進み続けるか、あるいは止まるかという決断を迫られていることを知る。
では、この破滅的な結末を脱するには、どうすればいいのだろうか?
そのためには…
21世紀にはこの20世紀の合理性のディレンマから抜け出さなければならない。
△合理性の再構築
この20世紀型の合理性の負の側面を克服する鍵は、心の再構築にあると考える。
すべての行動は心から造られる。が、ゆえにどのような心を持つかによって、行動が変わってくる。
行動が変われば、おのずとその蓄積である結果にも大きな影響が現れる。
20世紀には、その行動の根本である心に何があったか?
それは…
利己心と、目に見えるものだけを信じる心(科学による実証主義)であった。
この心を変えなければならない。
具体的には、今この社会構造を支えている思想~功利主義とリバータリアニズム~についての再検討が必要である。
(少しややこしくなるので、詳細をお知りになられたい方はこちらをクリック)
このためには、自分から見えるものだけへの囚われからの脱却が必要だ。
まずは、利己心からの脱却。
利己心~欲は、生きる上で大きな力となる。
が、それだけを人生の目的として生きていけば、やがて欲は貪欲に変わる。
その貪欲を満たすためには他の人生を踏み台にして、利益を得ていかなければならない。
その連鎖の先にあるのは、利害の衝突、そしてそれによって起こる非合理的な結末だ。
これからの脱却のためには、利他の価値を知ることだ。
利他とは、他を思うこと。つまりは「共存」、自分の利益の増大のために、他の領域を侵さないというスタンスである。
この自分だけでなく、慈悲をもって他を見る心~利他が、貪欲を抑制するのに必要であると考える。
そして、みなが利他の心を持てば、和が生まれる。
自分だけでなく、見えない他~子孫も含めた~の利益の尊重し、共存していく。
この和の心が20世紀の合理性の根幹である同の思想~自分、富、利益の価値は絶対的である~を脱却する上での大きな鍵だ。
(※これが実行可能であるということは、理論的にはすでに科学的に証明されている。)
次に科学至上主義からの脱却。
このためには、見えるものだけがすべてではないということを常に認識することが大切である。
この具現化のための重要なステップの1つは…
富の増大=幸せの増大ではないということを知るということ。
前述のように目に見える幸せの尺度として、お金が重宝されてきた。
しかし言い古された言葉であるが、お金は生きるために必要だが、お金があれば幸せになれるということではないのだ。
それは、先進国、特に米国、日本、韓国で高い自殺率が記録されているところに顕著だ。
この事への気づきと実践が目先の欲にばかり囚われる20世紀の合理性から脱するのに大きな一助となる。
また同時に、科学は絶対ではないということを知り、謙虚になることだ。
人類の英知を結集させた原発の事故、そしてその処理過程が難航している事実は、科学の限界を示している。
このいい例が、福島原子力発電所事故対策統合本部が公表した地震確率表だ。それによると、今年1月時点で、今後30年間で震度6以上の地震が起こる確率は、福島第1原発で「0.0%」と予測されていた。
もちろん、科学的分析を駆使してこの予測をたてたのであろうが、結果はごらんのとおり、3月11日大地震が福島を襲った。
自らの力~科学ですべてを解き明かすことができる。切り拓いてゆくことができる。
人類はこの傲慢さを見直すときが来た。
この実践がまさに…
脱原発だ。
原発は、人間は科学の力ですべては思うがままに切り拓いてゆけるという20世紀の合理性の権化だ。
具体的には、経済成長のために多量なエネルギーが必要→しかし資源は有限である、さて、どうするか?というディレンマを、原発という科学的ツールによって強引に解かんとしてきた(そのほかにも核大国の事情があったのだが)。
しかし3.11を観ると…
やはり科学は万能の神ではなかったのだ。
脱原発の実現は、20世紀の合理性のディレンマに打ち克つための大きな一歩となる。
そしてこの脱原発が人類を核戦争の災禍から救う。
また利他と和を土台とする21世紀の合理性によって造られる社会は、後世にとってより住みよいものとなると確信する。
そのために、私も微力ながら尽力していきたい。 合掌
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