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第七十六回「般若心経のこころ」~我執による心のコリをほぐしましょう

 去る12月8日は成道会でした。

 統国寺でも定例の法要をしました。

 成道会、すなわちお釈迦さんが悟りを開かれた日。

 それに際し、今日はお釈迦さんの悟りの1つ、「空」について法話をしたので、その要点をアップしたいと思います。

 

 仏教と他の宗教の最大の違いを挙げるとすれば、この空の思想です。

 仏教ではすべては空と説きます。善と悪でさえも、絶対視しません。すべては○~表裏一体であるがゆえに、善と悪の差はあるんだけれども、あってないものとして捉えます。

 ゆえに仏教では究極的に、善が絶対的に良く、悪は絶対的に悪いという概念上の壁はありません。

 

 仏教で空の教えを凝縮したお経といえば…「般若心経」。

 この般若心経は仏教だけでなく、神道でも読まれます。

 今日は色々な訳の中で一番わかりやすく般若心経の心を表している「般若心経」ひろさちや訳と現代語訳ロック調をご紹介します。是非、ご一読を!

 まずはひろさちやさんの現代語訳です。

 「般若心経」 ひろさちや訳

 

 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、

 肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。

 

 舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。

 存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、

 意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。

 

 舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、

 生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。

 

 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界

 といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、

 そんなものはいっさいありません。また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった

 煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。

 そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、

 その悟りにこだわらないからです。

 

 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりが

なく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、

妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。また、三世の諸仏は、

ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。

 

 それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた

 真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。

 それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。

 

 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。

 

 すなわち、これが真言です。

 

 「わかった、わかった、ほとけのこころ。

 すっかりわかった、ほとけのこころ。

 ほとけさま、ありがとう」


 ちょっと専門用語があるので難しいですが、空とは何かをふわーっとはつかめたかと思います。
 では次により砕いた訳であるロック調をご覧ください。



 現代語訳「般若心経」ロック調

 

 超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?

 誰でも幸せに生きる方法のヒントだ

 もっと力を抜いて楽になるんだ。

 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

 

 この世は空しいモンだ、

 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。

 この世は変わり行くモンだ。

 苦を楽に変える事だって出来る。

 汚れることもありゃ背負い込む事だってある

 だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

 

 この世がどれだけいい加減か分ったか?

 苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

 

 見えてるものにこだわるな。

 聞こえるものにしがみつくな。

 

 味や香りなんて人それぞれだろ?

 何のアテにもなりゃしない。

 

 揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。

 それが『無』ってやつさ。

 生きてりゃ色々あるさ。

 辛いモノを見ないようにするのは難しい。

 でも、そんなもんその場に置いていけよ。

 

 先の事は誰にも見えねぇ。

 無理して照らそうとしなくていいのさ。

 見えない事を愉しめばいいだろ。

 それが生きてる実感ってヤツなんだよ。

 正しく生きるのは確かに難しいかもな。

 でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

 

 菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。

 愉しんで生きる菩薩になれよ。

 全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな

 適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

 

 勘違いするなよ。

 非情になれって言ってるんじゃねえ。

 夢や空想や慈悲の心を忘れるな、

 それができりゃ涅槃はどこにだってある。

 

 生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。

 心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

 

 この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

 

 意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。

 苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

 

 嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。

 今までの前置きは全部忘れても良いぜ。

 でも、これだけは覚えとけ。

 

 気が向いたら呟いてみろ。

 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

 

 いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

 

 『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』

 『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

 

 心配すんな。大丈夫だ。(以上、引用終わり)

 

 いかがだったでしょうか。般若心経の心に触れられたと思います。…心にズドンと来られたでしょうか(笑)

 さて、以下は小生の独り言:


 上で謳っているごとく、空は絶対的なものはないという教え。もっと言えば、自我(自分自分の心)は絶対的ではない。
 これを砕いて言うと、主観の否定とでも言いましょうか。

 般若心経では…




 ①なぜ絶対的なものがないのか、そして…



 ②空の教えにしたがって生きれば、余計な荷物を背負わずに済むよ、しんどい人生をまだ楽に生きられるよ~

 、と説きます。


 まず本当にこの世に絶対的なものはないのか、について考えてみましょう。

 例えば25度という温度は絶対的尺度ですが、どうでしょうか?

 これも人それぞれの主観によって、変化します。

 南極の人からすれば暑い。アフリカの人からすれば寒い。アジアの人からすればふつう、といった風に。


 あと主観によって絶対的な物質が変化するだけでなく、それによって人の行動が変化する事は科学的にも証明されています。

 ちなみにこれを証明したえら~い学者さんはノーベル賞をもらっています。

 (※A. Tversky & D. Kahneman。ただしTverskyは残念ながら受賞前にお亡くなりになりました。)

 例えば同じ1万円でも労働によって得た1万円と、親から3万円もらってギャンブルですって(負けて)、1万円残った1万円とは主観的価値が異なります。

 価値の受け止め方が違うがゆえに、以後の行動も差が出ます。労働によって1万円得た人はそれをギャンブルには使わない傾向にあります。
 逆にギャンブルで負けて残った1万円をもっている人は、ギャンブルにその1万円を使います。

 なぜ?


 もちろん負けを取り返すために!

 (※彼らは確率でさえも絶対的なものではないことを証明しています。これは私が現在行っている研究に関連するものなのですが、詳細を説明しようとすると長くなりますので、おいおい「智光の独り言」にでもアップさせていただきます。)

 


 次に我執~自分の視点がすべてであるとのみ認識した時の作用を見てみましょう。


 

 まず感謝の心が失われます。生きているのもすべて、自分のおかげだと勘違いしてしまいます。




 これはまた慈悲の心の喪失につながっていきます。自分の視点がすべてですから、他の視点を見ることはできません。




 最後に自分自分の心のみが強いと、必ずけんかになります。たとえ2人が他を害しようとする意思のない「良い人」でも、です。

 詳細は省きますが、これもノーベル賞をもらっているえら~い米国の学者さん(A. Sen)によって数理的に証明されています。

 (※これも現在行っている研究に関連するものなのですが、詳細はおいおいということで<(_ _)>)

 これら3つの作用を見ると、我執が過ぎると、人生生きていくのに背負う荷物が多くなることがおわかりでしょう。

 

 しかし…人間は我執がだめだとわかっていても、肩こりのように自分自分の心が強くなってしまうもの。

 だからこの一種のこりをほぐすお寺のような場所が大事です。人生にこういう場所があるとないとでは全然違いますよ~。特に苦~ストレスのたまり方がちがうと思います。

 

 また生きるということは、己と他との自分自分の心のぶつかり合いでありましょう。その中で私たちは生きていく。この中でも我執によって背負わなければならなくなってしまう荷物を減らすには、以下の3つの方法が有効です。


 ①間合いをうまくとる:抱え込む問題が多くならないためには、できるだけ他人とぶつからない距離を保つ。かといっても離れすぎてもダメ。


 ②他人の立場を考えてあげる努力をする:自分の視点だけではなく、他人の視点もあるんだよ、ということをいつも心がける。


 ③時を待つことを知る:般若心経でも説いているように、悩んでも答えのでない問題(例:病や死など)に悩まないで、時が来るまで置いておく。解ける時が来れば、解けます。

 

 しかしながら…くどいようですが、この3つを実践してもなお、人は自分自分の心に囚われる生き物です。それほど我執は根は深い。生きるということと直結しているのですから、しょうがないことでしょう。

 これがゆえに、我執から生じる苦は少なくはなっても、尽きることはありません。つまり、人である限り、人生の中で必ず苦に苛まれる時が来るのです。ゆえに、耐える力が必要なのです。 

 そのような時どうするのか?

 それもお釈迦さんは教えてくれています。




 …心の中の仏を持つのです。(※この詳細はまたの機会に書かせていただきます<(_ _)>)

 この世は諸行無常、終わらない冬はない。

 耐えて待てば、必ず春がやってきます。

 

 …早いもので、もう師走ですね。

 良いお年をお迎えください。合掌

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