第七十二回「兵と墨Ⅲ」
二週間ぶりの休日を家族で過ごし、家に戻る。
いつも苦労させている妻と可愛い子供たちが無邪気にはしゃぐ姿に癒され、リフレッシュできた反面、家族サービス独特の疲れを感じながら、ソファーに深く座りこむ。するとそれを察した気の利く妻が「お茶飲む?」と聞いた。
「あぁ」とそっけなく答えながら、テレビをつけると「北朝鮮のミサイル発射失敗」とのニュースが流れていた。
それを見ながら「失敗したんやぁ」と妻がつぶやく。その声色からして、一応言ってみたもののそれほど関心があるようではない。「そうみたいやなぁ」とまたそっけなく返し、妻が出してくれた紅茶に一度口をつけ、ごろりとソファに横わった。
目の前のニュースを見ているようで、見ていない。頭の中で思考がフル回転しているからだ。色々考えているうちに、いつの間にかまどろんでいた。
(あれ、お茶は?)
寝起きにさっき妻が淹れてくれたはずのお茶に手をのばすと、あるはずのそれがない。
起きると闇が広がっている。よく見るとたった一点、ろうそくの火が揺れている。
(あぁ、またあの大人たちのお呼びか…。)
自分なりにここがどこなのか確信を得て、何度か来た事のある道を進んでいく。
すると、その確信の通り、やはり二人の姿があった。
一つ机をはさみ、何やら話し込んでいる。その机の上には急須と茶碗が3つ。
その茶を一口すすり、いかつい口ひげの男がまず口を開いた。
「智光、久しぶりじゃな。元気にしておったか。」
「はい、おかげさまで。」
「で、どうじゃ今日のニュースのことはどう思う?」
「今日のニュースといいますと?」
「著孫国のミサイル、いやロケット、どっちでもええが、その打ち上げが失敗したじゃろ。あれじゃ。」
「いえ、これといったものはありませんが」努めて冷静に言う。
「そうか、それにしても著孫国には残念な結果であった。国を挙げた大祝典に花を添えるはずが失敗じゃからのう。それも国外の報道陣も読んだ上での失敗…、見るに耐えんわい。応援しておったのにのう。」といいながら、私にお茶を勧めた。
(優しい男だ。)この男はいつも弱いものの味方なのだろう。
ここで、黙って聞いていたもう一人の男が口を挟んだ。
「一概にそうとは言い切れない。」そう言いながら、茶を一度啜った。
「どういうことじゃ?」てんで合点がいかないという風に墨の人が聞き返す。
「すべては一長一短だからです。このロケット打ち上げ失敗にも光と影がある。」
「これにも長所があるというのか?この失敗で新しい政権の国内外の信用は地に落ちたじゃろが。」
唾が机の上に激しく飛び散る。もう一人の男はどうにも納得いかないようだ。
それを目でたしなめながら、兵の人が続けた。
「仰るとおり、たしかにこの失敗で新政権は内部的に失ったものがあります。
今回の失敗は悪い方に転ぶ可能性もあるでしょう。人民がこれによって動揺し、政権内部が分裂すれば、出帆間もない新体制の基盤が揺らぎかねない。
これが、今回の影。
しかし先ほども申したようにいかなるものにも影があれば光がある。
今回の光とは、孤立を免れたこと。
あのままロケットの発射が成功していれば、飴国を筆頭とする西側諸国に加え、著孫国に近い那賀国、そして白熊国も敵に回っていたことでしょう。
そして国連決議は可決され、さらなる制裁が課せられていたことでしょう。
著孫国を現在支えている那賀国さえも実質的に加わった経済制裁…著孫国の人民の生活がさらに苦しくなることは明白です。これは新政権の掲げる人民生活の向上という目標達成とは相反するもの。
しかし…今回の失敗で、この事態は避けられた。失敗以後、那賀国と白熊国はさらなる制裁には反対の立場をとっています。結果、国連決議ではなく、それ以下の議長声明ぐらいに収まっていく。」
「結果論じゃな。」
口ひげの男が肩をいからせながら、切るようにさえぎった。
「それに、影の大きさに比べ、お主がいうところの光はあまりに小さすぎる。」
世の中はそのような理だけで動くのではない、というこの男の主張が暗ににじみ出ている。
兵の人は一度目を落とし、それを軽く聞き流しながら続ける。その背中が(まだ話は終わっていない)と語っている。
「…ロケットの発射が成功していたらという仮定について、もう少し考えてみましょう。
結論から言えば、成功すれば著孫国は敵対する国々だけでなく、現在の同盟国、那賀国との関係がギクシャクしていたでしょう。
那賀国も白熊国も、隣国である著孫国の兵器の能力向上は喜べることではない。がゆえに成功すれば、事態はこれまでの孤立だけではなく、「大国の協調」によるさらなる圧力へと発展していく可能性が高かったといえます。換言すれば、朝鮮半島で利害をもつ大国が協力し、秩序を変える能力と意思を持ちうる著孫国の芽を今のうちに摘むという動きになっていく。
これに対抗するため、著孫国は背水の陣を敷き、自衛のためにさらに核能力を高め、力を誇示するしかなくなる。すなわち2009年のデジャビュですね。
しかし2009年と今回の打ち上げとの違いは…」
こう言って、兵の人は手に持っていた扇子をパッと開いた。白い紙の上にただ般若心経が書かれている。
「那賀国の機嫌を決定的に損ねること。
著孫国は今回、衛星を西海岸にあるトンチャンリから打ち上げています。
ここから衛星を軌道に乗せるには、衛星は上海上空をかすめる軌道を描かなければならない。これは那賀国からすれば、明らかに潜在的脅威の表面化と認識せざるをえない。つまり現在、著孫の経済を支えている中国の機嫌を損ねる。実際に、那賀国は過去、著孫国への重油を含めた支援の削減によって圧力を強めたこともある。
那賀国による実際的な圧力が著孫国の経済向上へのロードマップに大きな打撃となることは間違いない。しかし…打ち上げたロケットが早々に黄海で爆発したおかげでこの事態には至らなかった。」
「そう考えると、なぜそもそも著孫国は今回成功の実績がある東海岸のムスダンリではなく、西海岸から打ち上げたのでしょうか?
それも…100周年の絶対失敗できない打ち上げを。」
無意識に考えていた素朴な疑問を口にしてしまった。
二人がこちらを一斉に見る。
「そう、そこです。」
扇子の先が私の方を向いている。
「よくよく振り返ってみれば、今回の発射には妙な点がいくつかある。
1つ目は智光さんが今仰った〈なぜこれまでノウハウを蓄積してきた東海岸のムスダンリではなく、西海岸のトンチャンリから発射したのか〉。
西海岸から南へ向けての発射は、地球の自転を利用できず、燃料を増やすなどの微調整が必要であるがゆえ、東海岸側のそれに比べ、格段に難しいことは周知の通りです。
なぜ、新しい試みを100周年という絶対失敗できない時にあてたのか?」
「成功させる自信があったからじゃろう。」と言い、墨の男は鼻をほじっている。
「2つ目の疑問点は〈なぜ、2・29合意のあとすぐにこの衛星打ち上げを公表したか〉です。
衛星打ち上げなどせずに、あのまま黙ってさえおれば、飴国から食料を得て、人民生活の向上に弾みとなっていたはずです。」
兵の人が間髪入れず、切り返す。
「黙っておれんのが、著孫国の性分じゃろうが」と墨の人が今度はニカっと笑った。
「それに、2つ目の理由はやはり100周年だからではないのか?
それに著孫が主張していたように2.29合意には衛星の打ち上げを自粛することは入っていなかったというのも1つの理由となるじゃろ。」
自信満々に反論する。
兵の人が一息入れて、それにまた答えた。
「しかし、その答えは結局、1つ目の疑問に還るのではないしょうか。
100周年であったがゆえに、失敗は許されない。これは誰の目から見ても明らか、であれば磐石の態勢を敷くことが自然ではないでしょうか。不安要素をできる限り取り除いていく。
しかし、今回の著孫国の打ち上げを巡る動きはこれに逆行しています。
ましてや今回は新しい試みが過ぎる。ムスダンリではなく、初めてトンチャンリで打ち上げるばかりか難しい南の方向にロケットを向け、外国のメディアを招いてロケットの近くまで接近を許可する。このような状況では失敗した時に言い訳はきかない。といっても、発射にはメディアを立ち入らせませんでしたが…。また打ち上げた日の天候は、打ち上げに向かないものだった。
あと繰り返しになりますが、トンチャンリからの打ち上げの成功によって那賀国が機嫌を損ねるのは明白でした。これらは本来ならば、背負う必要のないリスクです。…失敗が許されない100周年のための打ち上げをするにしては冒険が過ぎる、そう思いませんか?」
「で、その心は?」
墨の人が間髪入れず言う。物語の結末を早く聞きたくて待ちきれない子供のような目をしている。
「要は…合理性の問題なのです。」
この瞬間、墨の男の顔が紅潮していくのが見えた。どうやら合理性~理という響きが本来あわない体質らしい。
それに気づいているのか、気づいていないのかわからないが、兵の男は平然と言葉を続ける。
「成功すれば、著孫国は大国すべてを敵に回す。しかし失敗すれば、ほぼ現状維持におさまります。飴国はそのまま敵だとしても、那賀国やら白熊国は敵にはならない。」
「もしかするとこの一連の動きで一番得するのは…飴国ではないでしょうか?」と、私がインスピレーションを得た勢いそのままに問うた。
「どういうことだ?」口ひげが揺れる。
「それはですね、今回の成功・失敗に関係なく打ち上げだけで、飴国はまず同盟国である一本国にミサイルディフェンスという武器を売る体制を一段と整えることができましたし、次に加羅国では北風が吹き、現親飴政権が不利を予想されながらも選挙で過半数を維持しました。さらに著孫国とこれら同盟国の接近も抑えることができます。まさに一石三鳥。これらの結果は飴国にとって好ましいものと思うのですが。」
兵の人が一つ頷いて、言った。
「さらに重要な点は、今回の打ち上げで作られた状況は、大国にとって好ましいということ。ここでは特に飴国と那賀国ですが、この両国間の利害にも合致するのです。
かつて、秘密裏に訪那したキッシンジャーは周恩来にこのような旨を伝えました。
〈飴国の軍隊が一本国に駐留しているからこそ、一本国は核武装に走っていないのだ〉、と。これはつまり、飴と那賀は一本国を再び軍事的に独立させないという点で一致しているということなのです。
ここでもう一つ考慮に入れなければならないのは、現在飴国と那賀国は微妙な関係にあるということです。飴国は一本国と那賀国の間をうまく立ち回りながら、国益を最大化してきましたが、今年から那賀国を抑止する軍事戦略へと舵を切りました。これに対し、当然抑止される側の那賀国は快く思っていない。しかし飴国にとって頭が痛いのは、那賀国が現在飴国の経済回復にとって、なくてはならない存在だということ。どうにかしてバランスをとらなければならない。この埋め合わせのためにも、今回の事態による副次的産物~一本国の飴国への依存の増大はカードとして活用できます。」
「そう言えば、クリキントン飴国務長官が海軍学校で最近言ってましたね。
〈那賀国を敵にする考えはない。現在の飴・那賀関係は新たな冷戦における対峙者ではない。…現在は、全面的に相互依存せざるをえない関係だ。〉
那賀国を敵に回せない飴国は結局のところ、一本国を使って抑止するのが精一杯なのかもしれませんね。」
私の話しを聞き終わった後で、兵の人が続ける。
「興味深いのはある今月初め、著孫国の外交官がベルリンで飴国の元高官と会談した後、北京に寄って那賀国側とも接触していることです。会談の内容は定かではありませんが、ロケット打ち上げ前、三者間のホットラインが機能していたことは面白い。
また今回の失敗は那賀国の要請に対して、1つの妥協的な措置とも見てとれます。
那賀国はロケット打ち上げ前の4月4日、国防省代表団を著孫国に派遣しました。この訪問の内容についての報道はありませんが、それほど想像に難くありません。那賀国は、自国の安全保障の脅威となる打ち上げの取りやめを要請したと思われます。
このスポンサー那賀国の要請に対して、著孫国の選択肢は3つ。
1つは打ち上げを強行する、2つ目は取りやめる、そして3つ目は失敗する。
しかし、今那賀国の支援が必要な現政権にとって、実質的に残されているのは2と3。
2つ目はどうでしょうか?この選択肢は自らの打ち上げの意思を曲げることになる。すなわち逃げることに等しい。内外にすでに予告した100周年記念のためのロケット打ち上げを途中で投げ出すことは自らの顔に泥を塗ること、最悪のオプションではないでしょうか。そうすると残るのは…
3つ目の選択肢です。」
「兵とは詭道なり」とふと、つぶやく。
「たしかに可能性はありますね。著孫国のロケット打ち上げの責任者は会見で、軌道を外れれば自爆装置が働くと言っていましたし。失敗させること自体は可能でしたね。
失敗を前提としていたとすると、あの迅速なる著孫中央通信の軌道投入失敗という報道もある程度合点がいく。」
兵の人はそれを聴き、一瞬ほほ笑み、さらに続けた。
「そしてこの失敗によって、飴国からも著孫国の脅威は減ずることとなる。
なぜなら、未熟なロケット技術を見せることによって、著孫国のミサイルは飴国に届かないということになるからです。」
その口調とテンポは最初に口を開いた時とひとつも変わらない。たんたんとして、冷静そのものである。
「でも、それは著孫国の国防力の低下を意味するのではないか!他国になめられては、国は守れんぞ!」
墨の人は言葉の端々で苛立ちが見え隠れする。その語気は兵の人のそれと対照的に熱くたぎっているようだ。
「その指摘は少し違うかもしれません。
今回の失敗で著孫国の軍事力に対する信頼性が低下することはありません。
著孫国は一本国と加羅国を抑止するための短距離・中距離ミサイル技術は過去の実験ですでに証明されたものであり、かつ飴国の科学者に公開したように核の技術も最先端を行くものです。よって、著孫国の国防力が揺らぐことはない。
これらを総合的に考えると…著孫国は2.29合意以後、ロケット打ち上げを宣言し、那賀国も含めた国際社会の圧力が予想以上に高まってくる中、失敗した場合の光と影を勘案し、〈苦渋を決断〉をしたのではないでしょうか。つまり打ち上げ失敗によって、内部的な不安要因を抱えることにはなるが、国外的には孤立を避けるばかりでなく、ある程度の国益、特に経済的な見返りを確保することができる、と最終的に判断したと思われます。そして…この見返りは相当程度保証されていると予想されます。もし、飴国が2.29合意そしてベルリン会談で合意したことを破れば、著孫国は飴国の同盟戦略をつぶしにいくでしょう。」
「つぶしにいくとは?」答えを早く聞きたい一心で突っ込む。
「それは…2009年の再現です。著孫国はさらなる核戦力の保有を内外に示す。
これによって、一本国と加羅国において飴国からの脱却を推進する動きが確実に強まります。両国は著孫国を叩くためという名目で飴国を突き上げ、これまで飴国に依存してきた攻撃能力を自ら有する方へと舵を切っていく。」
「面白い推測だ。」ここで、墨の人が口を入れた。
「だが、著孫国の意図がそのようなものであったとしても、出る結果はまったく予想と異なる場合がある。」
あらゆる修羅場をくぐってきたであろうその言葉には重みがあった。
「そうですね。まだ事の成り行きを観る必要があります。」
そう受けて、兵の人は扇子をゆっくりと閉じた。
(兵とは詭道なり、か…。)
そう心の中でつぶやいた時、不意に意識が遠のいていった。
まどろみが覚めていく。不思議とその意識が遠のきながらも、一方で覚めていく感覚に違和感を感じない。
目をこすりながら手をのばすと、そこには妻が入れてくれた紅茶のコップにあった。
それを一口含み、身体を起こす。顔を上げると、まだニュースが流れている。
(まだまだ精進せよということか…。)
啓蒙された直後の高揚感と強制されることへの少しのあきらめが入り混じる。
一度ふっと息を吐き、吸う。そうして、机に向かい今これを書いている。合掌
統国寺(古寺名:百済古念佛寺)
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