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第六十二回「妙好人が観た光」~人生の苦をいかに越えるか

 よく法話の中で「皆さんがご承知のように、人生は山があって、谷がある」というと、ほとんどの方がそれと同時に頷かれる。
 そのような信者さんの姿を思い浮かべながら、今回は人生の苦について考えてみたい。
 


 人生はなぜ苦しいのだろうか?

 食べるために働かなければならないから?
 それとも人間関係がややこしいからだろうか。
 いや愛する人をいずれ失うからではないか?
 それよりも病にかかるのが怖いから?
 そして人である限り…死が必ず訪れるからだろう。

 すべてが苦の一因を成している。が、すべてではない。
 これらを結ぶ共通の点はないかなぁ…と思考を深めてみる。すると、あった。

 共通点、それは…「不確実」であるということではないだろうか。

 いくら商売がうまくいっていても、いつ景気が悪くなるかは人智が及ぶところではない。これはサブプライムローン問題に端を発した今の不景気が如実に物語っている。
 今、多くの人はいつ職を失うかという不安の中で夜も眠れないでいる。そして職を突然失ってしまった人は人生のどん底にいることだろう。
 
 いくら友達が多いからといって、その友達がいなくならないとは限らない。またいかなる親友や恋人でも裏切らないとは限らない。
 いつ、どこで自らの予想に反して、信頼が崩壊するかは誰にもわからない。そして友や同僚からの裏切りを経験した人は、疑心暗鬼の渦の中で人を信じる事から距離を置く。
 
 いくら素晴らしい家族がいるといっても、それは永遠ではない。家族の死と共に、いつかはその家族の輪は崩れてしまう。
 そしてバランスが崩れた時、その輪を再構築することは相当の苦労を伴う。

 いくら健康に気をつけていても、病にかかる時はかかる。酒を飲まず、たばこを吸わずともだ。
 またほとんどの人は自らが病にかかるまでは、病など自分とは関係ないかのように思ってしまう。そして病を告げられた時、言葉を失う。

 いくら今は若く、健康であっても必ず死を迎える。そしていつ、どこで死ぬかは誰も予見することができない。

 …人生はあまりにも不確定要素に満ちている。いつ、どこで何が起こるか誰にもわからない。これを踏まえると、人生はまるで落とし穴が無数に広がる暗い洞窟の中を手探りで進んでいるかのようだ。この暗黒ゆえに人は不安を持ち、「苦」に苛まれる。
 
 人に未来は見通せない。100%明日はこうなると予言し、実際にそうなる人はいない。(ごくごくまれに見通すことができる時がある人はいると思うが)
 現在はあっという間に過ぎ去り、過去となる。
 そして人は過去を変えることはできない。
 人智は過去と未来には及ばない。

 また「果」(≒結果)に人智は及ばず、ただ天に因るのみだ。

 たとえば、「長者の馬の話」(『智光の独り言』第26回 「徳=得」)を思い出していただきたい。
 
 「こういう話しがある。ある村に長者(お金持ち)がいたそうだ。この長者は馬に目がなく、何と言っても、自分が飼っている愛馬が自慢だった。しかし、ある日、この愛馬と野原を駆っていると、不意に馬が逃げてしまった。この時の長者の落胆は目も当てられないほどだったという。この「愛馬が逃げた」という事象は、この瞬間、ほとんどの人の目に悪い事ととして映るであろう。

 が、数日後、逃がした事が、悔やんでも悔やみきれない長者は、またその野原一帯を探し回った。すると…前飼っていた馬より、もっといい馬が、そこにいるではないか。長者は我を忘れて、その馬を捕まえた。もし…愛馬がいなくならなければ、このいい馬との出会いはなかったであろう。この瞬間、「悪い事」は…「いい事」になった。

 その後、長者は毎日、この新しい名馬で野原を駆った。そしてある日、あまりにもいい馬なので、長者の息子が乗ってみたいと言った。「よいぞ。」長者は言った。息子の頼みを断る理由もない。そうして息子は父の名馬にまたがった。「はいやー」と合図を掛けると、風のような速度で走り出した。はじめはいい風に走っていたのだが、途中から何やら様子がおかしい。息子の乗馬のうでよりも、過分なスピードが出すぎているのは遠めに見ても明らかだった。「止まれ!!」と叫んだのもつかの間、息子は落馬してしまった。急いで駆け寄ったのだが…息子の足の骨は折れてしまっていた。この瞬間…新しい愛馬を手に入れたいい事は、息子の大怪我という悪い事に変わってしまった。

 が、しかし話はここで終わらない。なんと、この数日後、長者のいる国で、戦争が起きる。当然、若い男はみな徴兵されていく。が、この長者の息子は…落馬によって大怪我をしていたがために、徴兵されずにすんだのだ。「何という妙なる縁…」何であれ、事なきを得た長者は大いに喜んだ。ここでもまた…「悪い事」と「いい事」がひっくり返った。このように「いい事」と「悪い事」は表裏一体なのだ。」

 ここで強調したいのは、このように長者が馬を失くすということの始まりから、息子の命が助かるという最後を完璧に観られる(予言できる)人などいないという事だ。

 これはただ天の差配によるもの、ゆえにこの天に比べれば、人は結果を左右できない小さな存在である。この観点からは…人は「愚者」といえるのかもしれない。
 
 また人は業を背負わずには生きられない。他の犠牲なしでは生きられないのである。なぜなら、人は食べなければ死ぬようにできているから。たとえベジタリアンと言えども、野菜の命を奪いながら生きている。ベジタリアンだからといって業がないということにはならない。

 このように「他」の犠牲に依存しなければ生きていけないという観点からも人は…「愚者」あるいは「悪人」、一人では立てない存在といえるのかもしれない。

 では、この私たち「愚者」はどのように生きれば幸せになれるのだろうか?

 妙好人はこの幸せになるこつを知っている。



 まず妙好人は自分が「愚者」であること~天から観れば個人の力はしごく小さいという事~をきちんとわかっているだけでなく、常に肝に銘じている。
 自分の力で何でもできる、またはすべてをなしてきたと慢心する人は「盲目」になりがち、目の前にある幸せを容易に見失う。

 自らが暗闇の中にいて、独りでは生きていけない愚者、悪人であると自覚しているがゆえに、妙好人は「他」の存在を決して忘れまいとし、考え、行動する。

 たとえば妙好人の一人に数えられる源左さんにはこのような話が伝わっている。
 ある人が「お寺に行くと、お寺では仏の教えがありがたいと思うのじゃが、家に帰るとちっともありがたくない。本当にわしは偽同行(信者)じゃ」と嘆くのを聞き、源左さん「偽になれたらそれで十分。なかなか偽にはなれんからのぉ」と返したそうだ。

 …自らが偽信者と言えるのは、己の小ささや愚かさをきちんとわかっている証拠という事だろう。
 これを認識すればこそ、自らが「生かされている」という事に気づかされる。



 また妙好人は「結果」は天がすべるものと知っているがゆえ、物事を大きく観ることができる。
 たとえば、上記の源左さんでいえば、このような風だ。

 源左さんの次男の万蔵の気がふれた。源左さんの友達が「たいへんやなぁ」と心配の言葉をかけると、源左さんはきょとんとしてこう言った。「ああ、ようこそようこそ、このたびは万は楽な身にしてもらってのう。」
 もちろん、気がふれたのは苦の一因となるであろう。がそれがすべてではない。いい面もある。ある面では世間のしがらみから解放されるという見方もできるわけだ。

 人ががんばるのも大切、なぜなら努力あってこそ実りがある。たとえば、未来は見れなくとも、未来を観んとし、未来のために万全を尽くすことは必要だ。たとえ、未来はそれが来るまでけっしてわからくとも。
 しかし、歴然と実るかどうかは仏の差配であり、その実りもまた諸行無常~変化をしていく。上記の長者の馬の話のように。
 ここに至れば、源左さんの視点を理解できる。



 次に妙好人は全体を観られるがゆえに、欲が少なくなる。
 以下もまた源左さんの逸話から。

 源左「だれだらあ、柿の木に茨をくくりつけた者なあ」(柿の木に茨をくくりつけたのは誰だろう)
 
 竹蔵(息子)「そりゃおらだけつど若いもんが柿を盗ってこたえんけぇ」(それはオラだ。若い者が柿を盗るのでかなわないから)
 
 源左「竹や、ひとげの子に怪我さしたらどがすっだらあ」(竹や、よその家の子供に怪我をさせたらどうするのか)
 と言って茨をはずして代わりにはしごを掛けた。しばらくたって
 
 竹蔵「ててさん、柿の木の梯子、まあとらいのう」(お父さん、柿の木の梯子をもうはずしましょう)
 
 源左「まあ置いとけやあ」
 
 竹蔵「置いときゃあ人がなんぼでもとっで」(置いておけば他人がいくらでも盗るよ)
 
 源左「人が取っても、やっぱり家のもんがようけ食うわいや」(他人がいくら取っても家の者が一番食べるのだから)

 全体を観る事は物事をあるがまま観るのに不可欠であり、あるがまま観れば、奪い合うよりも分かち合うことが自身をより利することが当然のように観えてくる。



 最後に妙好人はこの不確実な世の中で、「確実」なものを持っている。
 
 源左さんであれば、「阿弥陀仏」が「確実」なものであった。
 そう、妙好人にとって、天はこの不確実に満ちた人生で唯一の「光」~「確実」なものなのだ。
 
 天のみが生老病死を配し、諸行無常の廻りをすべることができる。何度もいうように、人にこれは決められない。
 そしてこの確実なものである天が人生にゴール(=極楽浄土)はあると示している。そのゴールをきった時には、必ず幸せが溢れているとも言っている。だから信じて、人生しんどいけどその光に向かって進んでみよう、というのが妙好人の考え方である。

 ここで大切なのは…確実なものを持つ人は、不確実なものしか持たない人よりも強いという事。
  …光なき人生はあまりにも苦しい。
 それはまるで、ゴールなきマラソンのようなもの。想像してほしい。ゴールなきマラソンを走ることができる人がいるだろうか?いくら遠くても自らのゴールを認識できるからこそ、人は走ることができる。
 
 実は夢や目標でも確実なものになりうる。が、ここで難しいのは、一つは夢や目標は移り変わるものであり、もう一つは夢に破れ、目標に達せなかった愚者にはこれらは確実なものになりえないということであり、多くの衆生はこれに値するという事だ。

 夢や目標を持っている人のその過程、ましてやそれを成した人の成功の瞬間には「苦」は少なく、幸せが多いのではないだろうか。しかし、人生は山あり谷あり、いい時ばかりではない。必ず困難な時がやってくる。今、まばゆいほどの光を放っている「スター」である野球選手や、俳優、歌手でさえもやがてはその光を失っていく。そして強烈な光を放っていた分、それを失くした時の反動は大きい。特には過去の光~栄光~に囚われ、前に行きにくいようになっている。

 人間いい時は、何もせずともいいかっこできるが、悪い時には~「苦」が想像もできないほど、そして耐え難いほどに増幅する悪い時には、その何倍にも感じられる苦によって暗闇がさらに深まっていく。

 

 しかし、この天が示したゴール(極楽浄土)はどのような状況な人にも、光となり、ゴールとなりうる。夢や目標に破れた人々にも平等なる光となる。

 ただそこに…「光があると信じれば。」
 信じた瞬間から、その光はあなたにとっての確実なものとなる。
 そしてゴールを見つければ、「初発心時便正覚」~人はゴールに向かって、走ることができる。つらくて仕方がない時は時に歩き、時に休みながらでも前にいける。


 さらに言えば、ゴールがあるからこそ、人は走ることができるのではないだろうか?

 そう、暗闇の中で光が差せば、人はその光に自然と向かっていくように、人はこの不確実な暗闇の中を、光に向かっておのずと歩をすすめていく。

 人は人事を尽くし、ただ天命を待つことしかできないというが、天命(自分自身のゴール)があるからこそ、人は人事を尽くすことができる。ゆえに、人は何かをやらんと発願する時、まさに天の意思のなかにいる。

 今を懸命に生きる。それと同時に、「他」~天~に感謝する。
 そしていくら環境が変わっても、この生き方を変えない。いい時にも、悪い時にも。

 これが妙好人の幸せになるこつではないだろうか。


 最後に、みなさまに無量寿の光が差されることをお祈りいたします。 合掌

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