統国寺では、ここでお坊さんも、信者さんも、また信者ではなくとも叶えたい願いを持つ縁ある人々も、こぞって弥勒さまにお願い-「祈祷」-をする。
以下のエピソードはこれにまつわる実話である。※多少の脚色はご容赦ください(笑)
エピソード① 学業成就
ある信者さんのご夫婦が、息子さんの医学部受験合格のため弥勒庵にて祈祷(百八参拝)をなさった。
結果発表の日、そのご夫婦がわざわざご報告に来られた。
「…だめでした。」
大変肩を落とされていたが、また来年もがんばりますと最後は切り替えて帰って行かれた。とはいっても、お帰りの際のその残念そうな後ろ姿は、何とも言えない侘しさと無念さが感じられるものであった。
その後何日経ったか忘れたが、電話が鳴って受けてみると、そのご婦人の声がする。
私:「どういたしましたか?」
ご婦人:「おかげさまで、受かりました。」
私:「はい?」
よくよく聞いてみると、後日補欠での合格通知が来たらしい。
これには自分が受験でいい点数を出すだけでなく、誰かが入学を辞退しなければならない。つまり、より一層自分の力ではない何かの力の作用なくして、こういった結果は得られない。
ご婦人は電話越しに何度も何度も「本当にありがとうございました」と頭を下げられ、電話を切られた。
エピソード➁ ―子宝成就―
お墓参りに来られる信者さん。
ある日、他愛もない世間話をしていると、自分たちにはある悩みがあるという。
聞くと、結婚して9年が経つのに、子供ができないらしい。
それを聞いたうちのポサルが、「もしあれだったら、一度弥勒さんにお願いしてみたら」、と勧めた。
お若いご夫婦なので、スルーするかなぁと思っていると、その日から定期的にお墓参りと弥勒さんにお願いに来られるようになった。
暑い日も、寒い日も、良い日も、悪い日も、彼らは弥勒庵のろうそくを灯し、お線香を焚き、礼をし続けた。
そして、ある日、朗報が届く。
「赤ちゃんができました!」
よかったね、と返すと、話はここで終わらなかった。
「双子なんです!!!」
「?!!!」
安産のお参りにも来られたのは言うまでもないが、
その子供たちも今はもう大きくなって、境内を走り回っていますとさ。
めでたし、めでたし。
以上は祈祷によって、思い通りの結果を得られたケースである。
しかし、ぶっちゃけて言うと、祈祷をして必ず思い通りの結果を得られるわけではない。
祈祷をしても当初思い描いた結果を得られない場合もある。
仏心とは、そういうものではない。
私も弥勒庵にて千日祈祷を行ったが、祈祷してよかったなと思うのは、
自分を支えてくれている大きな力―他力―をより身近に感じられたことだ。
自分自分から、他のために、そういう心が作られていく。
仏教では、自分自分の心こそが、真実を曇らせる要因。
そこからの脱しをくれる1つが、祈祷なのである。
そして…
心が変われば、行動が変わる、
行動が変われば、習慣が変わる、
習慣が変われば、人格が変わる、
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。
(※上の言葉は、ウィリアム・ジェイムズが言ったとか言っていないとか。野村克也元監督も絶賛しているらしい。)
祈祷を通じて、心を整え、自分だけではなく他のためにも生きる、というヴィジョンが開けていく。
そして、人は他のために生きる時、真に強くなる。
ここに祈祷をする真の意味がある、と私は思うのだ。
よろしければ、あなたも弥勒さんの前で手を合わせ、心を整えてみませんか。合掌