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第五十七回「中道」

 イメージとして…
 「中道」とは、灰色かな、と思っていた。しかし、どうも中道とは灰色でもありながら、臨機応変に時に白、時に黒になれる状態なのかもしれない。



 人は白黒~二つの対立するものにとかく囚われがちであるが、中道とはこの対立を越えて、「いい塩梅」に物事を観るということである。

 興味深いのは、この塩梅は普遍的ではないことだ。常に移り変わりゆくばかりか、多面体~人によって、時によって、場所によって、その塩梅は異なる。
 例えば、親から見るよい塩梅と子から見るよい塩梅がまったく同じになる事はない。
 なぜなら、置かれている時空~立場に差異があるからだ。

 しかしながら…中道にはこの時空の対立をも越えられるという意も含まれていると私は思う。
 何をもって?

 …違って当たり前という意識をもって。これにはまず「他」への思いやりが必要となる。まずは自分のことを考えるのではなく、他人のことを考えてあげるのだ。
 けっして悪いという事ではないのだが、人はまっさきに己に囚われるようにできている。
 というのは、他人の感情や思考は見えづらく、断定しづらいが、大部分の自分の感情、思考はわかりやすい。自分から見えるからだ。

 この仕組みが己と違うことへの違和感を生じさせる。そしてその違いに囚われ、文化、肌、国…といった差異に嫌悪さえも感じていく。

 しかし、違うことは悪い事なのだろうか?

 私はいい事だと思う。なぜなら、人間違って当たり前だからである。
 そして人は己と己(他から見た)の対立を越えない限り、苦から脱する事はできない。
 なぜ?

 人間はこの差異の連鎖~社会の中でのみ生きていけるからである。
 
 しかし、最近の「殺すのは誰でも良かった」という通り魔事件が続くのを観るに、多分この犯人たちは己からの視点がすべてだったのではないか。つまりは、「他」がなくとも、「己」は生きていけると考えていたのではないか。
 
 お金さえあれば、コンビニ弁当を食っていけるのだろうが、そのコンビニ弁当を作るのにも数多くの「他」~他人と自然がなければつくる事はできないことに気づいているだろうか。

 もしくは、すべてが自分の思い通りになりうると考えているのではないだろうか。
 このすべての縁を~数多くの他の意思を思い通りに操る事などはできない。ゲームの…

 自分の思い通りに行かない時にはリセットがきくゲームの影響がどれほどあるかはわからないが、多分彼らは思い通りにいかないこの人生を思い通りにいくと錯覚していたのではないだろうか。
 ゆえに、思い通りに行かない時に腹が立つ。そしてその怒りにもだえ苦しんでいたことだろう。
 …思い通りにしようとあがいけばあがくほど、苦の泥沼にはまっていく。


 しかし、注意したいのはこの錯覚は彼らだけに特有のものではない。
 私、そしてあなたは人生を思い通りにしようとしないだろうか?私は手に入れたいもののために努力する。ほとんどの人がそうだと思う。
 ゆえにこの錯覚は私たちが常に陥っているものだともいえる。
 ただし、彼らはその錯覚の程度が非常に重く、その人生の目標達成の対象が殺人とそれによるある種の名声を得ることになったに過ぎない。



 …この己と他という極は、対であって、対でない。
 「いい塩梅」によって、一つになる。
 が、彼らの目からはこの己と他は対極でしかないのではないか。そればかりか、極端に己という極にばかり囚われながら、自身の運命を歩いているように観える。



 しかしながら、彼らがこうなってしまったのは、彼ら自身にばかりに原因があるのではない。彼らの意思~運命~だけではなく…
 宿命、その縁によりしものでもある。なぜなら…

 彼らが生まれてこの方、その時々の全ての環境が複雑に絡み合った結果、今の彼らの立場が造られ、それを土台として現在の思考と行動があるからだ。
 例えば…まったく同じ赤ちゃんが二人いるとしよう。
 一人はしごくお金持ちの家に、もう一人はしごく貧しい家に預けられ、育てられたとすれば、大きな違いが生じてくるのは疑いない。お金持ちの家で育てられれば、学校に行けるだけでなく、ピアノやバレエ、英語などの習い事を何不自由なく受けられるだろう。もう一方の子供はその貧しさゆえに、さもすれば、盗みを働かざるを得ないかもしれない。…その日を生きるために。

 縁自体に…悪が生まれる原因がある。

 また悪があるがゆえに、善が存在しうる。そして悪はなくならない。がゆえに、善も消えない。

 善は中道ではない。
 善に囚われても、それは「いい塩梅」にはなりえない。
 例えば、善に囚われた者たち(ただ善に恵まれる縁に遇っただけと気づいていない者たち)には、悪は悪としてのみ映る。肉を食べず、妻帯をしない自分たちこそを「仏」とし、殺生を悪としか見ない。

 が、仏教の根本はそこにない。一乗~すべての衆生が成仏できる、にある。
 普通の衆生は肉を食らい、妻帯するだけでなく、何かを殺し、犠牲にしながら生きていく。
 猟師であれば、魚を、肉屋さんであれば牛や鶏や豚を殺しながらしか生きていけない。
 では、この人たちは成仏できないのか?もしくは成仏するためには生きる糧を捨てなければならないのか?

 答えは…否、成仏できる。

 なぜ?この世で生きている限り、殺生をせず生きているものなどいないがゆえに。

 たとえ、肉を食べず、ベジタリアンだとしても、殺生を犯しながら生きている。

 …米や野菜も肉と同じ命ではないか。ここに何の差があるのだ。
 これに気づかず、自らを聖とし、一点の汚れもない存在だと勘違いすれば、感謝を忘れる。

 殺生を極力せずして、生きていける存在は恵まれた衆生に過ぎない。ここを勘違いすれば、善に囚われ、成仏への道を誤る。
 これは善と悪を完全に別のものとしかみていない。ゆえに、お釈迦さんは小乗は成仏せずと断じたのだ。
 悪もまた縁によって造られ、また悪は善になりうる。

 もし善にのみ囚われていれば、華厳経の中で、なぜ善財童子が売春婦に教えを乞うたかという意味も解けない。

 悪~愛欲にまみれた売春婦になぜ教えを乞うたのだ?
 それは売春婦になった因もまた縁にあるがゆえに。
 もし、生きるために、もしくは子供を育てるためにそれしか道が配されなかったのなら、それもまた善なのではないか。
 私が、あなた同じ立場にある時、つまり生きるために、その選択肢しか残されていない時、同じ道を行かないだろうか?

 このような悪しき業縁を配された弱者の視点を善にのみ恵まれた者たちは見ようとしない。
 ただ正しく、正しく、正しく生きなさいと説く。 代わりとなるの生きる術を提示もせずに。
 その暗闇の度合いに適した灯りを照らすことが必要であることも見えずに。
 
 

 己と他、善と悪は対立すると同時に、表裏一体である。
 物事は常に混在している。すっきり単純明快というのは非常にまれである。例えば、最近…

 「さまよう刃」という東野圭吾氏の小説を読んだ。
 大まかな内容は娘をレイプされた挙句、殺された父親の復讐とその正当性を巡り、周りの人たちの心と行動が揺れ動くさまを描いている。考えてほしい。もし、あなたの愛する人が殺されたらどうするか?
 
 もし私の愛する人、例えば子供が殺されたら、私はまず…

 親としては「殺す」という感情を持つだろう。どんな手段をもってしても殺す、という。しかし時間が経つにつれ、仏教者として犯人を「許す」という感情を持ち、その葛藤に苛まれる事は目に見えている。
 この複雑に入り混じった感情が、どちらに転ぶかはその時になってみないと正直わからない。
 またその感情が造った行動による結果もまたよく出るか、悪く出るかはわからない。

 こう考えると、その時々のすべてを勘案し、臨機応変に「いい塩梅」を自分なりに見つけるしかないのかもしれない。
 なぜなら、「いい塩梅」もまた多面体であり、移り変わりゆくのだから。

 

 今、この塩梅が崩れているように思う。
 己という極に極端に針が振れている。
 これをいかに戻すか。

 一つには家庭、そして学校の教育はこの根幹を成す。
 「他」の大切さを教えることが大切である。これは知識だけを詰め込む教育では成せない。

 が、問題を一層複雑にしているのは、「誰でもよかった」といって他人を殺した彼らがさりとて極貧の中にいるわけではない点だ。
 さきほどの例で言えば、極貧の中で育った子供が生きるために、盗みを働くのとは違うのだ。
 また売春を働く女性もさして生活に窮していない人もいる。

 ではなぜ、彼らは悪循環の中にいるのだろうか?
 それは…

 豊かさの中ですべてを当たり前と思ってしまっているからだ。

 一日三食を食べられる事が当たり前となってしまったこの国では、三食のごはんを食べられる感謝を感じる事が非常に難しくなってしまっている。
 家族と一緒にいられる事があたりまえになってしまっている。
 自分の夢を追える事が当たり前になってしまっている。
 

 
 …中東では、戦争が日常であり、子供でさえも武器を持つ。戦場に出た父親が生きて帰ってこないことも珍しくない。
 …アフリカでは、いまだ飢餓と疫病がはびこっている。一日三食を食べられる、またはワクチンを打てる方がしごく稀な事だろう。


 日本はこれだけ経済成長を成し遂げ裕福になったのにもかかわらず、上ばかりを見ている。
 下には無限とも思えるほどの貧困と戦争があるにもかかわらず。

 個人を変える一つの効果的な方法は、まず国家が変わることだ。そして方向性を明確に示す事。
 国家が下を見、己の裕福さという物差しだけではなく、今の幸せを噛み締める時、はじめてその中に生きる個人の意識が変わり始める。

 そして、この国家における己から他への意識改革~「共生」~は21世紀を生き残るにおいて、欠かせない。
 特に地域統合とエネルギー、環境問題が取り上げられるであろう21世紀おいては。

 

 …マックス・ウェーバーは西欧より発した合理性に基づく資本主義の根底にはプロテスタントの倫理、道徳があると説いた。
 これはつまり、西欧では宗教的道徳をはじめとする他への意識が存在する土台の上に、己の利を追求する資本主義が成立したという議論である。
 これを前提とするならば、日本はこのバランサーとしての宗教的道徳の必要性を学ばないままに、ただ合理性、そして資本主義だけを追いかけてはいないだろうか?
 宗教的道徳の必要性に気づいていないがゆえに、日本はそれを軽んずる。一方で、脱亜入欧以来、己、合理性、資本主義のみを模倣してきた。今の日本の現状はこのひずみが出てきたと考える。
 この観点からも、日本国家自体がその舵を逆にきる時なのではないだろうか。

 20世紀に囚われていない者~竜馬よ、今こそ出でよ。さもなければ、大国のはざまで日本は沈んでいくことだろう。合掌

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