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第五十一回「違って当たり前」~和の基礎となるもの

 しっとりと雨が降っている。

 この雨が私の目の前で緑を濡らし、その雫が輝く光景を当寺の大広間から見るとまるで時間が止まり、一枚の絵画を見ているかのようで、何とも言えない癒しに包まれる。

 この絶景に癒されながら常に思う事は、「森羅万象に上下はない」という事だ。

 
 …一般的に仏事では、晴れの日が好まれる。特にお墓事では、雨が降ると功徳が足りない、縁起が悪いとさえいう人もいる。

 が、森羅万象に上下はない。

 晴れる日があって、曇りの日があって、そして雨が大地を濡らし、ここに人の手が丹精込めて加わってこそ、稲ができる。

 このうちのどれか一つが欠けても、私たちはおいしいご飯をいただくことはできない。そう、すべては役割分担、順繰りとその役割をこなしていく。自分に与えられた役割を粛々と…。

 人間もこれにもれない。人と人との間に上下はない。そしてそれぞれが与えられた役割を認識するにせよ、しないにせよ、何らかの役割を成していく。
 まぁ、木や花のようにこれを「粛々と」こなす人は多いとはいえないが。

 この役割分担を認識すると、「和」の真の意味が観えてくる。
 和とは…

 「同じものが集まる事」ではない。

 「違うものが集まる事」だ。

 そもそも、この世でまったく同じものはなく、似通ったものでさえ、一握りに過ぎない。99パーセントは自らとまったく違う性質を持つ。

 自然の理を観ると、これはしごく当たり前であるのだが…人はこれを容易に理解する事ができない。

 他が自分と違う考えを持っているからといって、争う。
 他が自分と異なる行動をしているといって、嫌う。
 実は同じ血を分けた親子でさえも、兄弟でさえも違うものであるにもかかわらず、「自分と違う何か」を敬遠する。

 この姿勢に終始すれば、その人の人生は寂しいものになるだろう。なぜならば、この社会は99パーセントは自分とは違う他をもって構成されているから。この社会を生きる中で、自分とは違う他とうまく折り合いがつかなければ、常にケンカばかり、その過程ではストレスを受け、最悪独りぼっちになってしまう。

 反面、自然のように違うものが「和」すれば…お日様の日差し、それを時にさえぎる雲、そして大地に降りしきる雨が和すれば、素晴らしい実りに恵まれる。

 実際に、よくよくこの社会を観れば男と女がいて、老・壮・青が揃って、様々な職業があってこそ、うまく社会が廻る事に気づかされる。お医者さんや政治家だけでもこの社会はけっして廻らない。大工さんがいて、主婦がいてこそ、うまく廻るのだ。

 かつて聖徳太子は十七条憲法を制定する際、「和を以て貴しとす」とまず定めたという。
 これは違うものが混在する国を束ねなければならない時、まったくもって合理的で必要不可欠なスローガンである。

 そう、和の大切さは「違って当たり前」という事を知ればおのずと観えてくる。

 最近、これをまた強く感じられたのは福田さんと小泉さんの対比においてだ。

 福田康夫現日本国首相は「光而不輝」(コウジフキ)を座右の銘としてきた
 光而不輝、すなわち「光るものがあっても輝かせない」。この人の影たらんという姿勢をもって彼は首相の座までのし上がった。

 反面、小泉純一郎元首相の座右の銘は…「無信不立」。
 民の信なくば(国は)立たず、との信念は、巧みなメディア戦略を一つのてことして政権を見事に維持した小泉氏にぴったりな言葉だと感じるのは私だけだろうか。この小泉さんは福田さんとはまったく逆で、自分でいくら光を抑えようとしても輝いてしまう。どの場にいても目立ってしまう。テレビ栄えするのもこの光るのを抑えきれない性質がゆえだろう。普通は出る杭は打たれるものだが、彼も運命に導かれるように首相の座を射止めた。

 彼らの性質はたがいに真逆に位置している。やり方もまったく異なる。が…

 双方が首相となった。
 しかし、この真理に関わらず人は…「この性質でなければ、このやり方でなければ成功しない」と囚われてしまいがちである。
 頂きへと続く道は無限にあるのにもかかわらず。

 そしてまたこの目指さんとする頂きは人によって違う。人は自らの定めた山をそれぞれ登っていく。この登っていく山が違うからといってそれを批難する道理がどこにあるだろうか。

 最後に、それぞれの道は一人ではこの頂きにたどり着けないようになっている。人と人とが「和」の一文字で支えあったこそ、山を登りきれる。いくら一人で生きていると思っている若者がいても、その命は親から授かったものであり、またいくら自分は一人で稼いで食べている、他人から何も言われることなどないと考えている人がいても、その人が食べているコンビニ弁当は他の手によって作られたものだ。農家の方でもない限り、お米を自分で作られる人は稀だろう。たとえ農家の方でも、自然の恵みがなければ、お米はできないのだ。

 つまるところ、私たちは違うものの中で支え合いながらしか生きていけない。
 これを観られれば、自然に感謝が心に満ち溢れる。そして感謝が満ち溢れれば、また「和」がいかに自らを豊かにするか、が観えてくる。
 よりよき人生のためにまずは「違って当たり前」、これを意識することから始めましょう。合掌

追伸:
 仏教では和を最も尊ぶがゆえに、和を尚さら成す人を尊敬の念を込め…

 「和尚」さんと呼びます。仏教の要は「和」なのです。

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