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第七十三回「お盆のこころ」~カンフーパンダの観点から

 やっと長かったお盆が終わった。

 今年のお盆が例年より長く感じたのは、週末の間に盂蘭盆が来たせいだろう。

 毎年、もう歩くのも不自由なおじいちゃんやおばあちゃんが一生懸命にお参りする姿を目にする。そして思う。

 

 「なぜ、これほど手を合わせるのであろうか」

 

 

 

 お盆の由来には諸説あるが、その1つに目連にまつわるものがある。

※一部脚色がありますので、その点御了承ください。

 

 ある年、目連の母が亡くなった。

 目連はお釈迦さんの10人の弟子~十大弟子の1人である。この十大弟子にはそれぞれ特徴があって、目連は神通力第一とされる。

 神通力とは目に見えないものを観る力をいう。目連はそれに長けていた。

 

 目連の母が亡くなって、まもなく修行の期間があり、その最後の日、目連は瞑想に入る。

 神通力を通して、愛する母が今どこにいるのか、探し始めたのであった。

 まずは、天上界。母はいない。

 そこから一段また一段、あるいは東に西に北に南にと探し回るのだが、どこにも見当たらない。

 まさかと思い、地獄の世に入ってみると、そのうちの1つ餓鬼道で母がもがき苦しんでいるではないか。餓鬼道では、水を飲めどものどの渇きは癒えず、物を食おうとも空腹は満たされない。

 

 餓鬼によってもがき苦しむ母の姿を観ても、救うことができない自分。

当然のことながら目連はひどく嘆き悲しむ。そして悩んだ末、師僧であるお釈迦さんを訪ねた。

 

 「お師匠さま、どうしたら愛する母を地獄から救うことができるのでしょうか?」

 お釈迦さんは目を閉じて、沈黙したままである。

 

 「どうか、お教えください。お願いします。」

 目連は重ねて懇願し、地にひれ伏した。

 

 「そなたは母のために私の言葉を信じ、何でもする覚悟があるか」

 お釈迦はゆっくり目を開けながら言った。

 

 目連はその言葉に即座に反応し、伏していた頭を上げ、嬉々として答えた。

 「はい。」 そこには一点の迷いも見えない。

 

 お釈迦さんはその返事を聞き、しばし目連の目を見つめた後、その方法を教えた。

 「愛する母のために、お前持つ全ての力をもって、祭壇を組み、供物を供え、祭事をしなさい。そして祭事が終わった後は、その供物を縁あるものすべてに分け与えなさい。」

 

 数日後、目連はお釈迦さんの言うとおりに、祭事をし、供物を身内や友達だけでなく、道行く人、そればかりでなく、飛んできた鳥や虫、寄ってきた犬や猫などの動物、近くに咲く花にも分け与えた。

 そうして祭事を終え、神通力をもって再度母を探すと、目連の母は無事、餓鬼道を脱していた。

 

 …この目連の故事に倣い、今でもお盆になると供物をもって大勢の方がお寺やお墓にお参りにいくようになったという。

 

 普通に考えると、神通力やら地獄やら出てくるこの故事は現実離れしており(少なくとも科学的ではない)、伝説として意味以上のものを見出せないであろう。

しかし、この故事は隠喩であり、本当に伝えたいこと~「お盆のこころ」~は、供物を供えてお参りすることではない。

 …縁に感謝することの大切さを伝えることにある。

 

 

 

 お盆が終わってやっと落ち着きが戻ったある日、ある方が子供たちへのプレゼントとして「カンフーパンダ」というアニメ映画のDVDを持ってきてくれた。

 それをさっそくはしゃぐ子供たちと見たのだが、そこであるすばらしい名言に出会うことができた。

 

 はからずも龍の戦士に選ばれてしまったラーメン屋の息子、パンダのポー。

 全然修行にもついていけず、仲間からも嫌われ、逃げ出すポーに亀のウーグウェイ老師がこのような言葉をかける。

 

 「あきらめる、あきらめない。

 ラーメン屋をやる、やらない。

 

 君はこれまでとこれからを気にし過ぎなんです。

 言うでしょ。

 

 昨日は過去のもの。

 明日は未知のもの。

 今日の日は儲けもの。

 それは神さまからの贈り物。」

 

 脳天に衝撃が走る。

 すぐさま、原文を見てみると、これがより深みがある。

 

You are too concerned with what was and what will be.  There is a saying:

Yesterday is history.  Tomorrow is a mystery, but today is a gift.

 

 ここまでは、前の訳とほぼ同じ。しかしこの後、

 

That is why it is called the PRESENT.とつづく。

 

 「だから今日という日を“ 贈り物 ”と呼ぶのです。」

 (※英語で現在という単語も、贈り物という単語もPresent。)

 

 この言葉に対する見方は人によって異なるし、それぞれ真実を照らしているのだが、私から観ると、この言葉の真意は「自分が生きている」と考えている人には見えない。

 

 自分が生きている。自分の努力が、才能が、いま自分の成果をもたらした。

 この考え方からいけば、ウーグウェイ老師がいう未来は未知ではなく、自分の力で変えられるものであろう。

 もちろん今日という日は贈り物などではなく、自分の力でつくりだしたものだ。

 自分の力だけで得たと思っていれば、今日は特別ではなく、「当たり前」のものとなる。

 当たり前であれば、心の中に温かいものは生まれない。

 

 しかし、自分の力だけで得られるものなどこの世にあるのだろうか。

 

 彼のこの言葉~今日は贈りもの~を解く鍵もまた作品中のウーグウェイ老師の言葉にある。

 

 「この世に偶然はありません。必然なのです。」

 

 彼からすれば、何かの結果を得るのにその原因となるものは、自分が生きていると考えている人たちのように己(の努力や才能)だけではなく、己とともに己以外のすべてが1つの結果に影響を及ぼしていると観える。

 必ず何かに影響を与え、造りだすがゆえにすべてが結果につながる。

 またこの観点からはすべての事象に意味がある。

 つながりがあって、意味がある、この観点からは、この世に偶然はなく、必然なのだ。

 しかしこの反面、己ではない何かの影響と結果とのつながり、そしてその意味は、結果というかたちになるまで、人間にはしごく見えにくい。見えにくく、解せないものを人は偶然としてしまう。

 

 己ではない何かの影響、お釈迦さんはこれを縁といった。

 縁を感じるには、今自分にある命を考えるとよい。

 

 昨日は過去のもの。

 1つの命があるには、10代前まで数えても1024人の御先祖さんが必要である。

 どれか1つの命が欠けても、私はいない。

 これを誰か、自分の力で意のままにできる人がいるだろうか。

 また男に生まれるのか、女に生まれるのか、平和の時代に生まれるのか、戦争の時代に生まれるのか、欧米に生まれるのか、アジアに生まれるのか…、生は人生を大きく決定づけるが、この生を選べる人がいるだろうか。

 

 明日は未知のもの。

 明日、生きている保障は誰ももてない。いくら健康に気をつけていても、病気で倒れる時は倒れる。飲酒もせず、まっすぐ車を走らせていても、酔っ払いの車が突っ込んでくる時がある。ただたまたま外にいて、雷が落ちて死んでしまうこともある。

 …地震は言うまでもないだろう。

 

 いま自分が生きている。この側面もあるが、それだけでは人は生きられない。

 目に見えない己以外のものそして人事が及ばない何か~縁~によって、命がある。

 

 ゆえに、「今日の日は贈り物」なのだ。

 この中で人は夢を追え、努力をし、才能が花開いてゆく。

 そう、贈り物である今という時の中では、人は無限の可能性を持つ。

 

 しかし、人は自分が生きていると感じている限り(そもそもそうプログラミングされているのだが)、これを理解することができない。

 そしてまた今という日の大切さに気づくこともできない。

 今に感謝することができなければ、幸せは遠のいてゆく。

 そして人生に必ず幾度は陥る苦境の中で自分が懸命に積み上げてきた積み木が崩れた時、もう自分には何もない、と感じざるをえないだろう。

 そこから見えるのは景色は、ただ絶望となる。

 

 逆に、今という時の尊さに気づき感謝をするならば、いかなる苦境を与えられようとも、生きる力が残される。

 「まだ命があり、生かされている」

 この命の灯はけっして消えず、また崩れた積み木は積み上げられはじめる。

 

 …お盆の目連の故事の核心もまさにここにあると思う。

 自分以外のものへの感謝の大切さを自らの人生を通じて悟った先人たちが、これを伝えるためにお盆という儀式を残した。これはすべての祭事に通じることであろう。

 人間が生まれながらにどうしようもなく囚われる我執から、愛するものたちが少しでも救われるために、縁に一心に手を合わせている。

 これがまたおじいちゃん、おばあちゃんが体が痛いにもかかわらず、お盆に来て手を合わす私なりの答えでもある。

 

 その合わす手はけっして無意味ではない。目に見えなくとも、力を持つ。

 この世に、偶然などないのだから。合掌

 

 

 

追伸:お盆が終わり、カンフーパンダというすばらしい映画に出会ったこと、これもまた必然。

   この意味はさしずめ、引き続き感謝を忘れず、さぼらず精進せよというところだろうか。

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