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第二十二回「されど、これ日々好日なり」~二〇一一年 統国寺の標語

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 今年も年初めの法話は、毎年大晦日に住職が出される統国寺の標語としたい。

 

 

 今年は辛卯(かのとのう)年です。

 例えるなら、きらきら光るゴールドのうさぎ、あるいはシルバーのウサギの年です。

 

 そしてこの辛卯年の帯びる性質は昨年と同じく、松柏木であります。

 つまり昨年来の100年に一度の変化が木が伸びるようにまっすぐと続いてゆく。

 2010年は100年に一度の変化を感じさせる年でしたね。

 何よりもあの異常気象。特にあの夏の暑さといったらたまりませんでした。

 あの暑さゆえ…昨年は私が住職をして、初めて彼岸花がお彼岸に咲きませんでした。

 また国際情勢、特にアジアでは大きな変化が起こりましたね。

 

 この変化が2011年にも引き続きまっすぐと伸びてゆく。

 この兆候はすでに、天の気に現れていて…

 

 鳥取の境港では、なんと雪で船が沈んだ。

 このようなニュースを私は今まで聞いたことがない。

 

 ちなみに物事が急激に悪く変化することを「厄」といいます。

 

 この厄の性質の1つは今言ったように、思いがけず急にやってくるという事。

 私たちが厄に対処するための準備時間はないに等しい。

 

 もう1つの厄の性質は人を分けるという事。

 さっきの雪の例で言えば、境港には当時多くの船が浮かんでいたはずですね。

 しかし、雪で沈んだ船と沈まなかった船があった。

 その差は何でしょうか?

 

 もうひとつの例を挙げるなら、あの尼崎の列車事故。

 普段どおり通勤・通学する日常の中に起こった悲劇でした。まさに厄の典型的な例ですね。あの魔の2両目に乗っておられたほとんどの方は亡くなられました。しかし、生き残った方もおられる。
 この両者を分けたのは何だったのでしょう?

 

 …ただ厄によって分けられた、としか言えないのではないのでしょうか。

 

 ちなみに私が感じるところでは、今年の変化の特徴は、その速さです。変化のスピードがものすごく速い。

 これまでの懸案が急速に変化していき、特に結果が早く出る傾向にあると思います。

 

 

 さて、では引き続き大きな変化が予想される2011年をどう生きるか?

 今年の標語の発表です。

 


 「然日々是好日也」

 

 然は、「されど」と読みます。

 次に日々は「毎日」の意。

 好日は「よい日」。

 

 されど、毎日がよいであることを知ろう、というのが今年のテーマであります。

 

 ここでの最大のポイントは「されど」という言葉です。

 

 …人生は諸行無常であり、四苦八苦である。

 諸行無常、すべては常に変化していく。そして環境の変化は人智の及ぶところではない。
 四苦八苦、人間にはどうしようもない環境の変化の中で、苦~時には絶望さえ~を与えられる日が人生には必ずある。

 しかし、たとえ絶望が与えられようとも、「されど」、わたしたちはすでにいい縁の中にいるんだよ、というメッセージを込めてされどということばを使いました。

 まず、生きているだけで素晴らしいということを知る。これが激しい変化の中を生き抜く上で非常に大切です。

 五木寛之さんは大河の一滴という本の中で、生きているというだけでもいかに大切かということをこのように説かれています。

  「アメリカのアイオワ州立大学の、生物学者のリットマーという博士がたいへんおもしろい実験をされました。それは30数センチ四方の木箱、深さ50センチぐらいでしょうか、そのかに砂を入れて、1本のライ麦の苗を植え、そして水をやりながら数ヶ月育てるのです。すると、その限られた砂を入れた木箱の中で数ヶ月のあいだに、ひょろひょろとしたライ麦の苗が育ってきます。これはもう当然のことながら色つやもそんなによくないし、実もたくさんついていない、貧弱なライ麦の苗が育つ。そのあと箱を壊し、そのライ麦の根の部分にたくさんついている砂をきれいにふるい落とします。そして、その貧弱なライ麦の苗を数ヶ月生かし、それを支えるために、いったいどれほどの長さの根が30数センチ四方、深さ50センチの木箱の砂のなかに張りめぐらされていたか、ということを物理的に計測するのです。…なんと、その根の長さの総長、総延長数は1万1千2百キロメートルに達したというのです。…これはシベリア鉄道の1.5倍ぐらいになります。…命をささえるというのは、実にそのような大変な営みなのです。そうだとすれば、そこに育った、たいした実もついていない、色つやもそんなによくないであろう貧弱なライ麦に対して、おまえ、実が少ないじゃないかとか、背丈が低いじゃないかとか、色つやもよくないじゃないかとか、非難したり悪口を言ったりする気にはなれません。よくがんばってそこまで伸びてきたな、よくその命を支えてきたな、と、そのライ麦の根に対する賛嘆の言葉を述べるしかないような気がするのです。…人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えるだけでもじつは大変な闘いをしながらいき続けてきたのだ、というふうに、僕は考えます。」

 人間の命は尊い。私たちが考えているよりもずっと。

 1つの命が存在し、それがつながっていくだけでも、数え切れないほどの要因~すなわち縁が複雑にあい絡まっている。

 私たちの命はすなわち、変化の中で生き続けたご先祖様たちの血と汗の結晶であり、それと同時に未来へとつながる大いなる種。ゆえに…

  ただ与えられた縁のなかで一生懸命に生きる、それだけで非常に価値のあるとても素晴らしい人生なのです。

 

 では、もっと具体的にはこの変化に富むこの人生をどう生き抜けばよいか?
 この中で、今放映されている「坂の上の雲」を見ておられる方はいますか?

 …はい、ではその中で正岡子規が出てくるでしょう。

 

 子規は重い病にかかっていた。外出もできず、ただ部屋の中で俳句などの文学作品と向き合う日々。

 それがゆえに彼は自身の世界を病床六尺と卑下して表したほどです。
 彼にとってはその六尺の空間が人生の舞台だったわけです。

 その病から来るつらい日々が、彼に死をさらに身近に感じさせる。

 彼は死が怖くてたまらない。

 どうすればこの死の恐怖にうまく対処することができるのであろう?

 その死の恐怖に打ち克とうと、彼は禅を組みはじめる。

  死に打ち克つため始めた禅であったが、とうとう子規は悟る。

 
 「余は今まで禅宗のいはゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りという事はいかなる場合でも平気で生きることであった。(病床六尺からの引用)」

 そう、変化する縁の中で絶望に当たる日もある。

 しかし人はその絶望の中をも、平然と生きる術を身につけられる、そうして生きれば自身の中にある幸せを見失うことはない、という道を示すのが、即ち仏教なのです。

 
 さて次に、強烈な変化の流れの中でしっかりと生きるこつの2つ目は…

 今何をすべきかを探るのではなく…



 今何ができるか、を自分の頭で考えることです。


 人間、何をすべきかを追及すると、何もできなくなりがちです。

 ゆえに今あたられた環境の中で自分に何ができるのかをまず考えてみる。

 そしてそれをいくら小さな試みであっても行~実行に移してみる。

 その積み重ねが…

 

 無我夢中の境地につながっていきます。

 

 禅に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という言葉がありますが、要はその時々に自分に与えられた縁を感じ、それに最善を尽くして応えることができるか。

 そうして、すべての事を無我夢中に行うことができれば、変化の中でも常に心の安寧が保たれると思います。

 
 最後に…

 信者各位におかれましては今年2011年の標語を1つの道しるべとされ、大きな時代のうねりの中でも自らの中にある幸せを見失わず、日々これ好日となられますよう、心より祈念しながら大晦日の法話を終えたいと思います。

合掌 

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