第六十一回「天とつながっているがゆえに、自由だ」
早いもので今年ももう数日で終わり、新年を迎える。
本当に早い、と年の暮れにいつも感じるこの感覚は、また来年もきっと同じ感覚に見舞われるという前提がある。
このような日常が廻る感覚は、この終わりとはじまりが何かいつまでも-あるいは永遠に-つづくような錯覚を人に抱かせる。
そして、時にこう思う。「いつまでこの螺旋を繰り返せばいいのだ…。」
いいがたい倦怠感が重くのしかかる。
が、それはやはり錯覚…この螺旋には一つの終わりが必ず訪れる。
それが「死」だ。
しかし、目に見えるものに囚われ、目に見えないものを見失いがちな人間にはこの先にあるゴールがしごく見えづらい。
最近、脳天を打たれたような衝撃的な言葉に出合った。
「お前の生きる道はこれまでも、これから先も天によって完璧に決まっていて、それが故に完全に自由だ。根っこのところを天に預けている限りは…。」(バガボンド29巻中、沢庵和尚の言葉より)
人は天によって定められたレールを生きる。
この最たる例が生だ。人はいつ、どこで、誰の下に生まれるかは選べない。
1920年の日本に、軍人の息子として生まれれば、その子は十中八九、戦争に行くだろう。
逆に今この現在の日本の普通の家庭に生まれつけば、大体が幼稚園から、少なくとも高校は卒業でき、何よりも自分の夢を追えるだろう。
全体を成す「他」~この観点からは個人の能力など、塵ほどの力も意味も持たない。
しかし…
人は自分の行く道を選ぶことはできる。敷かれたレールをどのように行くか、どこで止まるか、あるいは誰と、どれぐらいの速度で行くかを決めることができる。
自分で、自分の利、他の利、もしくは双方を考え、一番いいと思う、自分が欲する方向に歩を進めていくことができる。
「己」の意思を決めるという観点からは人は限りなく自由だ。
そして、この己と他が成す両方の観点が円を描いている~不可分である。
ここで面白いのは、その自らの行動が常に欲する結果を得ることができないということだ。
たとえば、このような話がある。
ある国の幼稚園で先生たちが悩んでいた。父母たちが遅刻することであった。つまり、自分の子供迎えにくることが遅くなることが多々あったのであった。
この間保母に支給される残業代も積もれば、馬鹿にならなかった。そして考えた策が、遅れてきた父母には罰金が課されるということであった。
さてこの罰金制度によって狙い通り、父母たちのお迎えの遅刻の数は減ったのだろうか?
なるほど、遅刻すれば金を失うというのはしごく効果的に思えるが…
答えは、否。思惑に反し、遅刻してくる父母たちの数は以前より増えることとなる。なぜならば、多くの父母が罰金を子供の面倒を見てくれる代価と捉え、遅れても罪悪感を感じなくなったからだ。
このように人々の自由な意思決定の結果がいつも思い通りにいくわけではない。
そして人は自分の思い通りの結果を得ることができない時、「苦」を覚える。
なぜうまくいかない、自分はこんなにがんばっているのに…。
なぜうまくいかない、自分はこんなにまじめに生きているのに…なぜうまくいかないのだ。
そして生きる意味を疑い、最後には失い始める。
その苦しみの螺旋はまさに無限のごとく感じられる。
しかし、人はこの時、二つの大切な事を見失っている。
一つは自分は天の中で生きているという事。
天がすべての結果を統べる。考えてみれば、私たちの始まりと終わり~生と死~はただ天によって与えられるのみであるがゆえに、その間に享受する生は、釈迦の掌の上の孫悟空と似ているとも言える。
が、これが見えない。結果は人知が及ばないところという事を見失い、あたかも自分が結果さえも左右できるかのように錯覚してしまう。ゆえに自分の意にそぐわない結果を得たとき、その「己」、「結果」という鎖によってにがんじがらめになってしまう。
自らの手に自由があるにもかかわらず、見失い、その自由を手放してしまう。
また満足の結果はまた変化し、渇望や苦悶の原因となりうる。
…バガボンドの中で、宮本武蔵が自ら手をかけてきたライバルたちを思い返し、うなされ、このような自問にかられる場面がある。
「勝ったのは俺だろう?
…鉛のような重さを抱えて生きている。今も戦いは続いているという事。
あいつら(死んだものたち)は赦され、俺にとってだけ続いている…。勝ったのはどっちだ?」
自らが望んだ結果を手に入れたとしても、それが自らを満たし続けるとは限らない。
生は勝利の証でもあるが、また苦の連鎖にこれからもまみれていくという事。
逆に死も敗北という一面だけでなく、苦の終わりという面が歴然と存在する。
さて、もう一つ見失っているものは感謝だ。
一人で生きているかのような錯覚に陥っているが、一人で生きていける人間などいない。
皆が支えられながら、生きているし、そもそも生まれたこと自体が奇跡なのだ。
これは月並みかもしれない。が、これを常に感じて、体現している人は少ない。
それほど、見失いやすいのだ。
私が考えるに…
この二つを見失っていないことをあらわすのが…祈りだと思う。
祈る時、人は…人生には祈るしかない瞬間があることを体現し、そこには己以外のすべての他への感謝があふれている。
そして人はどのような時でも祈ることができる。大きな天に身をゆだねる事ができる。
そうすれば、己という束縛から解放され、軽くなる。
人知が及ばないものに、悩むよりもよっぽど楽ではないだろうか?
…冒頭の引用の言葉で奥深いのは「根っこのところを天に預けている限りは…」と付け加えたところにあると私は思う。
人は自らの小ささ、他のありがたさ、そして天の中で生きていると認識した時、真に自由になる。
この状態を仏教では…
「融通無碍」と言う。
では、皆様が来年も(あるいは来年こそは)、天を知り、一時も感謝を見失わず、真の自由を享受できますよう祈念申し上げながら、終わりたいと思う。
よいお年をお迎えください。 合掌
追伸:
苦は己と他を背負い、最後までその苦に堪えて、ゴール-死-をきったときにのみ、幸せに転化される。
また今回死をただの終わりとせず、一つの終わりとしたのには意味がある。
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