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第八十二回「村山聖さんと藤井聡太君から学んだこと」

 元々、この文のタイトルは「藤井君と村山さんから学んだこと」であった。よって、本文の出だしも「藤井君フィーバー」から始まるのではあるが、この文の核心であり私の魂を揺さぶったもの―村山聖から学んだこと―が薄まるような気がして、上記のように題名を変更しかつ冒頭にこの一文を加える。(以下本文)

 

 藤井君フィーバーに沸いた今年の日本の夏であった。

 戦後5人目の14歳でプロデビューを果たし、デビューから負けなしで日本最多となる29連勝の金字塔を打ち立てた。何よりも無数のフラッシュが焚かれる中でも、中学生とは思えぬその落ち着き払った佇まいに驚いた。

 彼を見ていて再確認したことは、まず量が質に変わるということだった。

 5歳から将棋をはじめ14歳まで約10年間、将棋にすべての精力を注ぎこんできて今がある。また対戦する相手の方々も幼少期から将棋に打ち込み、ようやく競争に打ち勝ってプロ棋士となり、勝つのがすべての世界でその命を削ってきた。

 例えば、藤井君が29連勝をかけ将棋を指した増田君も、幼少期にすでに頭角を現し、弟子入り後は師匠から言われて将棋界の生ける伝説、羽生善治氏の棋譜を3年かけてすべて書いた、という努力を続け、プロ入り後も精進に余念なく、その甲斐あって新人王に輝いた逸材であった。いわば、才能と努力の塊たちが、青春のすべてを将棋に注ぎ込んできた上で勝負するわけだ。

 こうした事実を知りふと考えたのは、一流といわれるレベルに達する期間の目安は10年なのかなぁということ。10年を目安に、何か1つに打ち込めば誰でも一定のレベルには到達すると思う。量が質に変わる。逆に言えば、一定の量を積み上げなければ、質的変化は訪れない。

 ただし、「その先」にいけるかは量ではない。…才能と運が必要だ。

 藤井君にはその両方が兼ね備わっているように見える。…今のところではあるが。

 

 しかし残念ながら、藤井君は30連勝とはならなかった。そうして藤井君フィーバーも急速に収束しつつある今日この頃であるが、この藤井君フィーバーにあやかって1人紹介したい人物がいる。冒頭で述べたように、これが今回の法話の本題である。

 村山聖(さとし)さん。藤井君と同じプロ棋士である。正確には、であった。

 「東の羽生、西の村山」と言われ、後には「怪童」の異名を持つ程強い方だったそうだ。どれくらい強かったというと、後に羽生さんの奥さんがツイッターでつぶやいたところによると、「…主人(=羽生)に報告すると、天才というのは村山くんと谷川先生の事だよ。自分はただ、努力し続けてるだけ。と、笑った。」ぐらい強かった。

 

 村山聖さんは5歳のころに腎臓の病気であることがわかり、小学5年生までの幼少期の多くを病院で過ごした。走ることもできない体にもどかしい日々を送っていたことであろう。

 しかし将棋を知ることで、彼を取り巻く景色は一変していく。将棋だけが彼と外の世界とをつなぐツールであるかのように、将棋に没頭する日々。13歳のころにはさらに修行を積むため、1人大阪に出る。

 その甲斐あって奨励会に入り、わずか2年で四段に昇段するというスピード出世を果たす(これは谷川九段、羽生四冠より早かったといわれる)。その後も順調に順位戦を勝ち上がり、A級リーグに所属し、ある時の竜王戦では当時7つのタイトルを保持していた羽生さん相手に勝利し、またある時は羽生さんを破って谷川王将への挑戦権を手にするまでとなる。

 

 1998年、羽生さんとのNHK杯決勝。それまでの両者の対戦成績は6勝6敗。戦局は終始村山有利で、誰しもが彼の勝利を疑わなかったその矢先、「後手7六角」という打ち損じで負けてしまう(7二歩なら勝っていたらしい)。

 …問題はこの「打ち損じ」がなぜ起こったのかである。

 実はこの時、膀胱がんが再発していたのだった。この対局の前にも彼は将棋を指しながら、幾度の手術を経てきた(ちなみに8時間半の手術を受けた時には、その1か月後に周囲の猛反対をよそに順位戦を戦っている)。その過程で、腎臓も1つ取っている。

 しかし、彼は抗がん剤を打つことを頑なに拒否していたという。抗がん剤によって脳に悪影響があり将棋が弱くなることを懸念しての決断だったという。結局、病魔によって蝕まれ体力がない中、あの「7六角」が出てしまったのではないかと私は思う。

 この決戦の5か月後、彼は逝く。29歳という若さであった。

 

 彼はこう問いながら生き続けた。

 「なんの為、生きる?何故、人間は生まれた。人間は悲しみ、苦しむために生まれたのだろうか。」(引用:NHKクローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/articles /3880/1.html)

 

 それはそうであろう。病にかかったのは彼のせいではない。

 その宿命を否応なく背負わされたのである。彼はそこから生ずる無数の苦―例えば子供ながらに走れないというハンデに苛まれ、終わりの見えない絶望をみつめていたことだろう。

 小学生の頃から正月の度に、来年の正月まで生きられますようにと祈ったという彼は、苦しみの中で上記の問いを幾度となく繰り返しただろうと思う。

 

 そんな中、彼は苦に満ちた人生を生きる意味を将棋に見出す。彼は使命に近い感覚で将棋に接していたかもしれない、と思わされるほど一心にその限られている時間を注ぎ込んだ。下の言葉がこれを象徴しているだろう。

 

 「自分は将棋しかできない人間、ならば将棋を負けるのは…殺されるも同然。」

 

 この観点からは、「名人になって、早く将棋をやめたい」というのが口癖だった彼にとって女、酒、ギャンブルあるいはゴルフ、釣り、ゲーム、漫画などの趣味に使う時間は普通の幸せを実感できるものであったと同時に、限られた時間の中で自らの生きる意味―将棋―を薄めるような行為とも捉えていたかもしれない。(実際には酒とギャンブル、少女漫画が好きで、また幸せな結婚したいとも、死ぬまでに女性を抱いてみたいとも洩らしていたと仲の良かった棋士仲間達が後日明かしているのであるが。)

 

 8時間半の手術の1か月後に順位戦を戦い、素晴らしい将棋を指せたのも、自らの人生の意味は将棋にあるという生き様の表れであったと思う。

 また村山さんのお父さんによると、彼が残した最期の言葉が「2七銀」だったという。

 この事実一点をとっても彼における将棋の重みがわかる。

 

 彼は死を幼少のころから常に意識せざるをえなかった。限られた時間を何に使うか。彼は将棋を選び、そこにほとんどの時間を費やし、自分を高めた。

 (実は死は私たちの横にも常に在るのだが、それを認識して生きている若者がどれだけいるだろうか。)

 将棋に生きた彼は上記の問い「人間は悲しみ、苦しむために生まれたのだろうか」に、自らこう答えている。

 

 「人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命であり、幸せだ。

 

 僕は死んでも、もう一度人間に生まれたい。」

 

 彼の出した結論は、数学的と言えるほどシンプルである。

 生きるということは、苦しいということだ。自分の思い通りにいくことばかリの人生など存在しない。そしてこれは人間の宿命、絶対なのである。

 しかし、彼は、であるがゆえに、苦しんでいるということは〈生きている証〉でもある、と考えた。ゆえに生きるとイコールである苦しいという感覚は、死が常に隣にあった彼にとって今生きていると感じられるものであり、それを感じるということは幸せだったのではないか。

 

 生きる=苦しい

 苦しい=生きている証

 生きている=幸せ

 ∴苦しい=幸せ

 

 この彼が導き出した定理、「苦しい=生きている証、よって苦しいこと幸せだ」を私は一生忘れることはないだろう。

 

 最期にもう1つ、彼について考えてみる。

 「彼は幸せだったのであろうか?」

 

 名人になって将棋をやめる、幸せな結婚をするという彼の2つの願いは叶わなかったし、もっともっと生きたかっただろう。この観点からは、幸せであったと断言はできないかもしれない。

 しかし以下のような観点もある。

 「幸せとは問題が生じてこない状態をいうのではない。私の生涯を燃えつくさせるような問題に出遭うことである。(佛光寺『晴れてよし、降ってよし、今を生きる~京都佛光寺の八行標語~』から引用)」

 

 彼は生涯を燃えつくさせるような問題に出遭い、生きることができた。この観点からは、彼は幸せだったかもしれない。

 …私は、そしてあなたは、生涯を燃えつくさせるような問題に出遭っているか。合掌

 

 追伸:今日8月8日は村山聖九段の命日だ。この拙稿を彼に捧ぐ。

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