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第五十八回「P≠NP問題」~容疑者Xの献身を読んで

 P≠NP問題を初めて目にしたのは、東野圭吾氏の「容疑者Xの献身」中であった。
 P≠NP問題とは文中を引用すれば、「数学の問題に対し、自分で考えて答えを出すのと、他人からきいた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度か」という問題で、1971年よりこの方、誰も解く事ができていない。

 私は数学は苦手なので、私がこの問題を数学的に解く可能性は限りなくゼロに近いのだが、P≠NP問題を仏教の眼で観れば、その答えは…

 どちらも易しく、普通で、難しい、となろう。
 すべての物事はいつも多面体であり、複合的である。
 ただ、その一つの断面を刹那的に捉えた時、答えというものが生じたように見えるだけだ。


 
 …すべての事象にはプラスとマイナスが常に混在している。
 例えば、罪はどうだろう。
 罪は絶対的な悪しかもたらさないのだろうか?

(以下、ネタバレ注意です。それでもいいと考える方のみお進みください)





 無償の愛を貫くために殺人を犯した石神は罪を背負った。
 ここで考えてほしい。
 
 「無償の愛を貫くための罪は善か?悪か?」
 この方程式をいかに解くか。これはP≠NP問題に通ずると思う。

 殺人という行為は決して許される行為ではない。そしてその罪は考えているよりも重く、その罰は心と記憶に下される。
 ほとんどの人はその重さに耐え切れない。

 しかし数学者としての道を断たれ、自殺する間際にあった石神自身には花岡靖子への無償の愛が生きる力の源泉であった。ここから生じた罪は彼にとっては生きている証であった。
 この時の罪は彼にとっては生きる糧である。これを失えば、彼は自ら命を絶っていた。つまり、罪が彼の命を救ったともいえるのではないか。自殺を絶対的に悪いこととするならば、この時、罪はいい事となる。

 また通り魔からわが子を守るために親が犯した殺人による罪はどうだろう。
 人を殺したことに変わりはない。が、親は子を守ったことに一種の達成感や満足感を覚えるのではないだろうか。

 反対に無償の愛の耐性はどうだろう。
 無償の愛は絶対の善なのだろうか?
 母親が持つわが子に対する愛は深い。これは一般的に言えば、非常に強い。
 いざとなれば、自分の命を投げ打ってでも、わが子を救おうとする。

 しかしながら、無償の愛が眼を曇らし、悪い結末をもたらす時もある。

 例えば、無償の愛が行過ぎると、過保護となる。
 その過保護が子供にとって、ゆくゆくは不利益となる事が多いにも関わらず、その側面が見えない。
 例えば、どんな理由があっても、たとえ自分の子供が悪いことをして、教師にわが子に殴られても抗議する。巷でいうモンスターペアレンツもこの部類だろう。
 このような両親に箱入りで育てられた子供達もやがて成人すれば、社会の波風にさらされる。
 しかし、彼らはその社会の厳しさに対する免疫が少ない。なにせ、殴られたこともないのだから。また暴力の加減を知らない。殴られた痛みは、殴られてはじめてわかる。
 何にせよ、親は人生の難関にぶちあたった彼らを生涯守り抜くことは難しい。なぜなら、絶対多数の親は子供より先に死ぬからだ。親が死んだ時、親の過保護の下で育ってきた子は自立し、自分の頭で生きていく事に非常に苦労することだろう。


 また無償の愛も永遠なるものではない。しごくもろい時も多々ある。
 例えば、仕事でくたくたに疲れた夜に子供が夜泣きををしたとしよう。物理的な肉体疲労は精神を衰弱させる。その上に睡眠が取れない。子供の夜泣きのせいで…
 ここである意識が一瞬だが顔を出すのではないか。「もううるさい」または「この子さえいなければ」
 もちろんこの感情はほとんどの場合、次の瞬間それを上回る愛と責任感によってかき消されるが。
 この刹那は、無償の愛は母親から見えなくなる。これはどの母親にも起こりうる事ではないだろうか。

 この感情が生じた時に、悪縁にあたると、最近多い親が子を殺す、または子が親を殺す事件が起こってしまう。 

 

 …そもそも完全なる無償の愛は存在するのだろうか?
 そこに己を思う心はないのだろうか。
 その程度は少ないながら…

 母親はわが子が利益~生きる力をくれるから、その対価として子を愛しているのではないか。
 すべての事象は~己と他も含めて~表裏一体なのだ。
 無償の愛も多面体のうちの一つの段面に過ぎない。

 石神にしてもそうだ。なぜあそこまで献身的になれるのか?それはそこに自らが満たされるものが存在するからである。

 「あの母娘を助けるのは、石神としては当然のことだった。彼女達がいなければ、今の自分もないのだ。身代わりになるわけではない。これは恩返しだと考えていた。彼女達には何の見覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っている事がある。」

 生きる希望を与えてくれたから、彼女達を助ける。明快な論理だ。




 「無償の愛のための罪」の方程式の答えもまた…あって、ないのだろう。
 善であり、悪である。そしていい結果にもなりうるし、悪い結果にもなりうる。


 であるならば、今この一瞬を美しく生きるしかないとも言える。つまりは美しい生き様を残す。
 彼女を守るためにその天才的な頭脳で花岡靖子の犯行をカモフラージュする石神。しかし、花岡靖子は別の男に惹かれていく。それを知り、心の中では猛烈な嫉妬の炎を燃やしてきた石神だった。しかし彼は初志を貫き通す。もしもの時のために準備していたプランどおり、彼女のすべての罪をかぶり、自首したのだ。花岡母子宛てにその後の指示を詳細に記した三つの封筒中で、彼は最後にこう助言している。

 「工藤邦明氏は誠実で信用できる人物だと思われます。彼と結ばれることは、貴女と美里さんが幸せになる確率を高めるでしょう。私のことはすべて忘れてください。決して罪悪感などを持ってはいけません。貴女が幸せにならなければ、私の行為はすべて無駄になるのですから。」

 

 しかし、この美しさの中にもとげがあるもの。あまりに美しすぎることも時に影をもたらす。

 この小説の中では、この完璧なる美しい献身的生き様は、計画の破綻をもたらした。…花岡靖子が自首したのである。これによって、彼の彼女を守るという彼の志は崩れ去った。
 もし彼が醜い、いや普通の生き様を彼女に見せればどうだったであろうか?
 例えば、最後の指示で「自分が出てくるまで、あるいはでてこれなくても私以外の男とは関係してはならない。あなたと美里さんの運命は私の手の中にあることをお忘れなきよう。」とでも書いていれば、彼女は自首しただろうか。
 私は石神が美しくも何もない生き様を見せた方が、彼女の罪悪感を刺激しなかったかも知れないな、と思う。
 美しい生き様は…時に他人にとってあまりにまぶしいのかもしれない。

 しかしまた、彼女は自首することで、心と記憶に刻まれる罪の意識から少しは解放される。
 これもまた彼女の幸せではないか。
 捕まらずそのまま罪の意識に苛まれながら生きるのと、自首して罪を償いながら生きるのと、どちらが彼女の幸せにとってよいのだろう?この答えもまた難しい。


 「無償の愛のための罪」…
 いやはや、この方程式に答えはあるのだろうか。 合掌

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