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第五十三回「命の意味」~バタフライ効果を踏まえながら

 すべての命に意味がある…本当にそうなのだろうか?

 生まれて間もなく息絶えた命にもそういえるのだろうか?それ以前に死を与えられた命は?
 
 また自分の命に意味がないと思って、ある人は自暴自棄になり、最後に自殺という道を選ぶ。このような人たちの命は?

 しかし、私は断言できる。たとえそれぞれの意思がどうであろうとも…



 この世に意味のない命などない。

 「命の定義」(「智光の独り言」第28回)の中でも述べたが、命は私たちが一方的に扱えるものではない。
 「あなたを命が生きている」という側面が歴然とあるのだ。つまり命というものは私たちの意によって得たものではなく、縁によって今私たちに与えられているものなのである。

 ただ縁によって…お釈迦さんが沙羅双樹の下で座禅を組み、21日間の瞑想を経て得られたものの最初が、この縁であったといわれる。

 この縁が因(原因)と果(結果)をつなぐ。そしてこの因と縁と果の連鎖はこの時空に無限に広がっている。

 例えば、私が生まれたという結果の原因はどこにあるだろうか?それは…両親の存在にある。が、その両親の結婚という因は同時に果という性質を帯びることを忘れてはいけない。両親を果とすればその因は祖父と祖母、母方の祖父と祖母の存在にいきつく。では、祖父母と外祖父母の存在の因は?…と、思考を進めるとこの因と果の連鎖が果てしなく続くことに気づかされる。…時がつながる限り。

 同時に私が生まれたという結果は両親が出会ったという原因に求められる。この現在人口が63億以上とも言われる地球上で、日本という国で生を受け、その上出会い、結ばれるという奇跡がその原因にある。が両親もまた祖父母と母方の祖父母の出会いによって、命を与えられた。このその時々に広がる空間は無限である。…この宇宙が広がるに従って。

 このように因果が無限に広がるがゆえに、これをつなぐ縁は人智が及ぶところではない。(人智の及ぶところであれば、どれほど楽であろうか…。)

 この人智の及ばぬ因と縁と果、この無限なる法の結晶の一つとしてすべての命が今存在している。

 

 今回注目したいのは、この縁の中にあるそれぞれの結晶がすべてつながっているということだ。

 …バタフライ効果(Butterfly effect)という言葉を耳にされた事はおありだろうか?
 アメリカのある科学者によって、生み出されたとされているこの言葉、どのようなものを指すかというと、例えば…
 
 「アマゾンの奥地に生息する蝶の一度の羽ばたきが、ニューヨークに竜巻を引き起こす」といったものである。

 つまり、蝶によって起こった非常に微弱な、超高性能デバイスでもなければ観測できないような微弱な風が巡りめぐって、竜巻というカオスを引き起こす。しかも遠く離れた場所においてもこの影響は及ぶ。
 
 これは、一見に何の関係もないような現象が、すべて関連性を持つことを示している。
 私が息をふっと吐けば、それが巡りめぐって台風となるかもしれない。
 あなたのその大地を踏み出す一歩が起こす微弱な揺れが、地震となるかもしれないのである。

 なぜ?科学的には色々な難解なことを言う。(以下をご参照下さい。「1961年に、ロレンツは計算上のコンピューターモデルを用いて、天気予報を再演した。(具体的には)シーケンス(因果的連鎖)内での数字上のショートカットに小数.506127と入力する代わりに.506と入力する。結果は(.506と入力した時と.506127と入力した時では)全く異なる天気が得られた。」”In 1961, Lorenz was using a numerical computer model to rerun a weather prediction, when, as a shortcut on a number in the sequence, he entered the decimal .506 instead of entering the full .506127 the computer would hold. The result was a completely different weather scenario” quoted from Wikipedia, the free encyclopedia)
 が、究極的には、人智が及ばぬ差配によって…

 すべてが因と縁と果の中にあるがゆえに、だ。

 今この法の中に存在するあなたの中に過去と現在と未来がある。私、崔智光という姿は50年もすれば、無くなる。が、私の命は先祖様が生き抜いた証であり、そしてこの証はわが子につながる。たとえ、子がなくとも…

 私たちの中に天と地~宇宙がある。あなたの一瞬一瞬の一挙一動が「バタフライ・エフェクト」~すべての時空に影響を及ぼしている。たとえ、時間的には短い命といえども、そこには必ず存在した意味があり、それが及ぼした影響が必ず残る。

 あなたと私が因と縁と果によってこの命をつなぐ役割を与えられたという事に気づけば、「存在をしている事」、そこにすでに命の意味が見出せるのではないだろうか。

 



 しかし、命が私を生きる事=私が命を生きる事は言葉でいうほどたやすいものではない。
 なぜなら…

 人はどうしようもなく「苦」を感じてしまう生き物であるがゆえである。この理由に至る過程をもう少し詳しく見てみよう。

 「苦」…お釈迦さんが仏道を目指された原点はここにあった。人である限り逃れられない「苦」~例えば人である限り死ぬ事~をいかに脱するか。
 これに対するお釈迦さんの結論は…

 「四苦八苦」~苦は消えないという事であった。

 そう、人は人である限り苦からは逃れられない。なぜ?

 眼が物を見られるがゆえに、
 鼻が匂いをかげるがゆえに、
 耳が声を聞けるがゆえに、
 口が話し、食べられるがゆえに、
 肌が感じるがゆえに、
 そしてそれら感受作用によって、わたしたちの心の中に感情が生じるがゆえに。

 …人間は構造上、認識し、感情が生じる生き物として造られてしまっているのだ。無限に広がる因と縁と果によってこのように造られた。人がこれを解決することができるだろうか?私はどうしようもないと思う。このように人智が及ばないところに苦が生じる根本原因がある。

 ではこのような前提の中で、どうすれば苦から脱し、自分なりの幸せを得る事ができるのであろうか?ただ苦しむしかないのだろうか?

 五木寛之という作家の先生がこれを絶妙に表現している。(仏教への旅 朝鮮半島編P118)

 「たとえば重い荷物を背負って坂道をのぼっている人がいたとする。その人は荷物の重みに耐えかねている。その人が信仰や信心を得たときに、背負っている荷物をおろして軽くすることができるだろうか。それは絶対にできない、というのが私の考えかただ。本当の信仰を得て、敬虔な生活にはいると、人生の苦しみがなくなるのだろうか。信心を得た人は、つねにこころ安らかでいられるのだろうか。答えはノーである。どれほど深い信心を得ようと、人生の苦悩はつきない。生きている限り生老病死の影は私たちにさしつづける。…それならば宗教にはいったいどんな意味があるのだろうか。信仰をもつことにどのような意味があるのだろうか。私はこう考えている。人間は誰でも重い荷物を背負ったとき、もういやだと途中で投げだしたくなるだろう。歩くのをやめて座り込みたくなったり、なにもかも放りだして死にたくなったりするかもしれない。そういう人間に対して、重い荷物を背負ったまま歩きつづける力をあたえてくれるもの、それが宗教だろうと私は思うのだ…」

 人は人生という坂を重い荷物を背負って自分の足で登らねばならない。仏がおんぶして代わりに登ってくれるわけでもない。
 これを命の意味に当てはめるなら…

 そう、あなたの命の意味は究極的にはあなた自身によって見出されるもの。他人の目だけによって見出されるものではない。
 しかし仏を信ずれば…

 必ず坂を上っているあなたの背中を仏が押す。
 仏があなたが生きている意味を必ず見られるように導いてくれる。

 またこれをマラソンに例えてみよう。
 マラソンはつらい。走っている間、ゴールまでの道程が長く、長く感じられる。時に走るのをやめてしまおうかと思う時もある。が、走りきれば、ある人はその充実感からはじけんばかりの笑みが自然とこぼれ、またある人は達成感からあふれんばかりの涙さえこみ上げてくる。
 しかしこの充実感や達成感~満ち足りる心~は、苦しみを経たものにしか得られないものだ。車やバイクでいくら42.195kmを走ったからといって、感動を感じるだろうか。「苦」を経てこそ、得られるものがある。
 加えて、「苦」を越えて、何かを達成するには自らの力だけでは成しえないことを人はその過程で感じるようになる。マラソンで言えば、走りきるには自分の力ではない何かの後押しが必ず必要だ。正月恒例の箱根駅伝がいい例であろう。いくら有力な選手でも、不意の怪我や病気には勝てない。そしていくら自己管理に気をつけていても怪我をしてしてしまう時はするし、病気にかかる時はかかってしまう。結果、スタートラインにすら立てなければ、たすき云々ではない。またいくら無事にスタートラインに立てたとしても、何か知らないけれども、調子が悪く途中棄権してしまう事も多々ある。しかし、このような自分の力ではどうしようもない要素をクリアし、目標を達成できた時~坂を昇りきった時~人は自然と手を合わせるのである。家族に、友に、恩師に、そして自分を支えてくれたすべてのものに~仏に~。その心には感謝が満ち溢れている。
 少し話しが飛ぶが…空海さんがお遍路をなぜあのようなかたちに造ったのかもここに通じるのではないだろうか。四国八十八所を巡るのはほかでもなく自らの足である。が、仏が背中を押さねばお遍路をいくことはできない。これをまた空海さんは衆生に遺そうとしたのではないだろうか。

 …すべての命が因と縁と果の結晶であることに気づけば、いや、気づかされれば、命はすでに…

 仏の中にあることを感じる事ができるだろう。
 命の意味は私の、そしてあなた自身の心の中にある。合掌

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